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聖地エルサレム。少しでも世界情勢や世界史をご存じの方には、何の説明も必要ないと感じるほど、世界史においても現代世界においても非常に重要な場所です。有史以来この場所をめぐりどれだけの方が命を落としたのか、想像すらできません。世界の動きと宗教を考えるうえで欠かせない、そんなエルサレムを紹介しましょう。
筆者の主観的評価 | ||
オススメ度 | ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教。3つの宗教の聖地であり、古くから多くの民族がここの覇権を争ってきました。「世界中の例外が集まっている場所」と評する人もいます。 |
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訪問のしやすさ | 現在、イスラエルの支配下にありますので、ますイスラエルへ入国し、バスに乗れば1時間強で到着します。ただし、イスラエル入国というのがそれなりの難関です。日本人が普通に入る場合はそれほど大きな問題はない気がしますが(特にツアーなどならもっと簡単だと思いますが)個人で、アラブ諸国への入国歴があったり、日程が不安定だったりすると、出入国でそれなりに強い尋問を受けます。 |
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旅行環境整備 | 世界的な観光地ですので、施設的な意味では整えられています。しかし、情勢が不安な場所ですし、アラブ人とユダヤ人のトラブルは散発的に起こっていますので、治安的な心配はそこそこあります。 |
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総合評価 | でも・・・。やはり世界中にエルサレムはここにしかありません。中東、いや世界をしっかりと知るためには、ここを訪れて、人々の想いの詰まった歴史と宗教の激震地を見てみることは非常に大きな意義があると思います。 |
エルサレムの歴史と歩み
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1【ユダヤ教について】
エルサレムを考える前に、まず最初に「ユダヤ教」について書きたいと思います。ユダヤ教の聖典(一般的には「旧約聖書」と言った方がわかりやすいでしょうか?)には、神が天地を創った様子が描かれています。年代は、正教会では紀元前5508年、また英国国教会の計算では紀元前4004年ごろのことだそうです。 ユダヤ教と聞くと多くの日本人の方はきいたこともないとおっしゃる気もします。でも実はユダヤ教は私たちの現代生活の中にも根づいています。例えば1週間は7日間ですが、これは「神が天地を6日間で創造して7日目=Sabbathサバットに休まれた」(旧約聖書創世記)という「神が6日で天地を創り、7日目に休んだこと」をもとにしているといわれています。 また「アダムとイブ」の話はご存じでしょう。神(ヤハウェ)は天地創造の終わりにアダムを創り、そのあばらからイブを創りました。そして、ヘビにそそのかされて知恵の実(禁断の実)を食べて、お互いが裸であることを知り、恥ずかしくなって楽園を追い出された・・という話です。ちなみに創世記には何の実であるかは書いていないのですが、絵画ではよくリンゴが描かれています。さらに言うと、MacやiPhoneで有名なApple社のリンゴマークは、この時のリンゴがモチーフになっているという噂もあります。(ちなみにS.Jobsは否定しているらしいですが)。この話もユダヤ教の中の話です。 もうひとつ、「ノアの箱舟」の話もご存じでしょう。 そしてノアの話もユダヤ教の話です。堕落した人間が増えたことを怒った神が、洪水を起こし滅ぼそうとすると同時に、「主と共に歩んだ正しい人」であったノアに方舟の建設を命じ、ノアの家族とすべての動物のつがいをのせ、大洪水を生き延びた、というあの話です。 そして、このノアの子孫にアブラムがいます。次の章は、そのアブラム、のちのアブラハムの話になります。 |
2【エルサレムのはじまりと語源】
かつて地中海と死海とヨルダン川にはさまれた地域は、パレスチナ地方と呼ばれ、様々な人々が住んでいたようです。この”パレスチナ”というのは、当時、この地域周辺に住んでいた民族ペリシテから来ているようです。 さて、あるとき、アブラハムAbraham אַבְרָהָם という老人は、神から「息子のイサクをモリヤの丘の岩で、焼いて神に捧げなさい(罪の赦しのためのいけにえにしなさい)」と命じられました。神はアブラハムの信仰心を試したかったのです。アブラハムは決心して、息子イサクをモリヤ山へ連れて行きました。アブラハムがイサクを小刀で殺そうとする、その瞬間に、天使が現れその手を止めました。そして神は「あなたが神を恐れる者であることが分かった」といい、息子の代わりに、生贄用の羊をアブラハムに渡しました。(旧約聖書第一記『創世記』22章)。そして神はアブラハムに、お前とお前の子孫にこの地を与えると告げました。 そして、このアブラハムの子孫たちがユダヤ人です。具体的にはアブラハムの子、ヤコブ יעקב, يعقوب が、4人の妻との間に12人の息子をもうけ、その息子たちがイスラエル十二部族の祖と言われています。 ユダヤ人たちの聖典によれば、このアブラハムこそ、唯一神ヤハウェと最初に契約した人間です。ヤハウェ(Jehovah.ヘブライ語は יהוה)とはもとはユダヤの一部族神でしたが、ユダヤ教が成立して、民族的な唯一神となりました。なお、キリスト教の神も同じくヤハウェであり、またイスラム教の唯一神アッラーも本来は同じ神を意味していています。古代ユダヤの言葉(古代ヘブライ語)には子音しかないので、かれらの神の名は「YHVH」が正しい表記となります。母音のつけ方によって「ヤハウェ」「ヤハベ」「エホバ」などとも表記します。 さて、「エルサレム」の語源ですが、実は諸説あって定まっていません。夜明けと薄暮の女神であるサレム神を守護神としたウルの町、という意味から”サレム神を祀る町”という意味からの“ウルサレム”から来たのだという説や、ユダヤ人たちが、アブラハムが息子をささげようとした地を「(神が)準備したサラム」、かれらの言葉で「イルエ・サラム」と呼んだなどの説もあります。 |
3 【モーセと、モーセの脱エジプト】
紀元前17世紀頃ユダヤ人たちはカナンの地(パレスチナ)から古代エジプトに集団移住したのですが、古代エジプト王朝の支配をうけ、エジプトで奴隷生活を送っていました。 紀元前13世紀、エジプトの王は、多産なユダヤ人がどんどん増えていくことに脅威を感じていまし、王は生まれたばかりのユダヤの男の子はすべてナイル川に投げ込んで殺せと命じました。しかしあるユダヤ人の男の子を生んだ母は子どもを殺すことができず、ナイルの岸辺の葦の茂みに赤ん坊を隠しておきました。すると、水浴びに来たエジプトの王女がそれを見つけ、自分の息子として育てることにしました。その男の子がモーセ(ヘブライ語: מֹשֶׁה、ラテン語: Moyses、Moses)と呼ばれ、のちにユダヤ人のエジプト脱出を試みる指導者になりました。成長したモーセは、エジプトのファラオに追われ、ミディアンの地(アラビア半島)に住んでいたとき、「燃える柴」のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地へと導く使命を受けました。そしてエジプトから民を率いて脱出したモーセは、40年にわたり荒野をさまよいます。途中で海(紅海)を割ったりシナイ山で神のお告げ(十戒)を聞いたりしながら、ユダヤ人たちをみちびいて、ついに神がアブラハムの子孫に与えた約束の土地、カナン(パレスチナ)に到着します。ユダヤ人たちはパレスチナにいた人々を平定して、定住します。 |
4 【ユダヤ民族の絶頂期の王 ダビデ王】
紀元前1000年ころ、ダビデという英雄があらわれ、12部族にわかれていたユダヤ人たちを統一し、パレスチナ一帯に王国をつくりあげました。ダビデは、羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、そののち、全イスラエルの王となり、40年間君臨します。ダビデ王は首都をエルサレムにさだめ、エルサレムは王国の首都として繁栄しました。まさに、ユダヤ民族の絶頂期を支配した王様、と言えるでしょう。 ダビデで有名なのが、王になる前におこなったペリシテ人ゴリアト(ゴリアテ)との戦いです。ゴリアトは勇猛果敢な巨人でしたが、ダビデは手に持った布と石で、手製の投石器をつくり、ゴリアトの額に命中させ勝利した、と言われています。なお、このダビデ。ルネッサンスで有名なイタリア・フィレンツェにあるミケランジェロ作のダビデ像を思い出してください。手には石を持っています。つまり、あのダビデ像は、このゴリアトとの戦いに臨む瞬間のダビデの姿、と言われています。また英語名でよく聞く男性名デイヴィッド David は、このダビデにちなんでつけられている名前です。アメリカの有名な大型バイクメーカー、ハーレーダビッドソン Harley-Davidson のダビットソンも、創設者の一人がダビッドソンだから、名づけられているのですが、この名前もダビデからきていると思われます(ついでにいうとDavid + sonなので、ダビデさんの息子という意味になりますが(〇〇jr.とか Mc〇〇と一緒ですね))。 いずれにしても、ユダヤ人の約束の地カナンの中でも、エルサレムを明確にユダヤ人と結びつけたのはダビデが最初と言っていいと思います。なお、この時代の遺跡は「ダビデの町 City of David」としてエルサレム旧市街のそばに今も残っています。 もうひとつついでに。現在のイスラエルの国旗にも取り入れられている六芒星のマークは「ダビデの星と呼ばれていますが、ダビデ王には直接関係なく、後世に考案されたものらしいです。 |
5 【古代イスラエルの絶頂期 最後の王 ソロモン王】
そして、ダビデの息子、ソロモン王の時代に、王国は最盛期をむかえます。エジプトのファラオの娘を妻にとり、内政的にも様々な改革を行いました。 また神がソロモンの夢枕に立った際、願いを聞かて、ソロモンは知恵を求めたため、ソロモンは知恵者のシンボルにもなりました。有名な江戸時代の大岡裁きの「子どもで争う二人の女の話」ももとのルーツは、ソロモン王の裁きにあるようです。 ソロモン王は、紀元前10世紀に、アブラハムが息子を神にささげようとした丘の上に神殿を築きました。この場所がエルサレムの「神殿の丘」で、「ソロモン神殿」とも「第一神殿」とも呼ばれるものです。 しかしソロモン王が死ぬと、王国は内乱が起き、南北に分裂します。そして北の王国(イスラエル王国)は前722年に滅亡、そして南のユダ王国も前586年、バビロニアによって滅ぼされてしまいます。こうして古代イスラエルの絶頂期が終わりを迎えます。 |
6 【バビロン捕囚、そしてユダヤ教の誕生へ】
バビロニア国王のネブカドネザル2世は、エルサレムをはじめ多くのユダヤ人都市を攻略し、生き残ったユダヤ人たちをバビロニア(現代のイラク南部)の首都バビロン(現在のバグダードの南方約90km)に連行します。これがいわゆるバビロン捕囚で紀元前597年のこと。 異国の地で捕らわれの身となったユダヤ人たちは、異国の文化に触れ、文字や名称、月の名前などは、かなり影響を受けますが、異国に住んだからこそ、みずからのアイデンティティを再考し、そしてそれを保つため、自分たちの宗教や生活様式を改めて考え始めます。こうして、ユダヤ教が誕生しました。 |
7 【ユダヤ教団の誕生 聖典とオリーブ山】
ユダヤ教を整備するにあたって、ユダヤ人たちはまず「タナハ תנ״ך」とよばれる聖典をつくりました。 Torah(モーセ五書)、Nevi'im(預言者)、Ketubim(諸書)の3部の頭文字をとった名がタナハで、アブラハムやモーセなど神と契約した者を預言者と呼び、かれらの言行を記したり、ユダヤ人のルーツをまとめたりしました。 紀元前538年、バビロンから解放されたユダヤ人たちはパレスチナにもどり、破壊されていたエルサレムの神殿を再建します。これが第二神殿と呼ばれるもので、紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレムの神殿の丘に建っていたユダヤ人の重要な神殿です(エルサレム神殿とも呼ばれます)。この神殿を中心として、ユダヤ教団がつくられました。 教団はユダヤ人が守るべき戒律をこまかく定めました。そして神ヤハウェを信じ、戒律を守る人だけが、最後の審判 Last Judgementの日に救われる、と説きました。最後の審判とは世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという日です。この日、神ヤハウェは、エルサレム近郊のオリーブ山( הר הזיתים جبل الزيتون, الطور)に降り立つと信じられたため、この山にはユダヤ人墓地がつくられました。なお、現在のオリーブ山ですが、第一次中東戦争でヨルダンに占領され、墓地は破壊されましたが、その後復元され、現在はユダヤの著名人の墓地になっています。 |
8 【ハスモン朝によるユダヤ人自治の回復】
そのあと、ユダヤ人たちはいろいろな王朝に支配されます。しかし自分たちの民族に誇りを持ち、またアイデンティティを守るため、自分たちだけの生活習慣、そしてユダヤ教を守りました。そして異国でもその地の神を信じず、風習にも染まらず、ひたすらユダヤ教だけを信じ、ユダヤ人だけのコミュニティを作って暮らしました。またユダヤ人の中には、商才があり、商業や金融業で財を成す人もでてきました。 前167年。当時、エルサレムの支配者だった、セレウコス朝シリアの王、アンティオコス4世は自ら「現人神」と称し、ユダヤ神殿を、ゼウス神殿と呼ばせ、違反者を死刑にすると命じました。これに対し、ユダヤ人は豪族のユダス=マカバイオスを中心に反旗を翻しました。のちに「マカベア戦争」と呼ばれるこのセレウコス朝からのユダヤ人の自立を目指す戦いは21年間も続き、前142年ユダスの弟シモンを祖とする、ユダヤ教国家ハスモン朝(ハスモン王国)が成立しました。 ここに再び、ユダヤ人の国家が成立したわけですが、この状態は長くは続きませんでした。地中海諸国を絶大なる力で抑え始めていた巨大帝国、ローマ帝国が迫ってきていたのです。 |
9 【ローマによるエルサレム支配とヘロデ王】
ハスモン朝は前166年~前37年の約130年間続いた王朝とされていますが、実際は内紛が続き、ローマの介入を受けます。 前63年には、ローマのポンペイウスによってエルサレムが占領されます。神殿は破壊されて、ハスモン家の王位は剥奪され事実上滅亡。その後はローマから派遣されるシリア総督の支配を受けることになりました。その後もハスモン家は反ローマ活動を行いましたが、前40年、ローマ元老院はに親ローマ派のイドマヤ人ヘロデをユダヤ人の王として認め,ヘロドはハスモン王家の当主を殺害。ここにハスモン朝は完全に終焉します。 ローマ帝国が繁栄した理由の一つとして「他民族への寛容性」があります。ここパレスチナでも同様で、ユダヤ人にもユダヤ教の信仰や、ローマ法よりもユダヤ教の戒律を優先することや、軍務の免除まで許したそうです。 こうしてパレスチナはローマの属州となったものの、情勢は安定し、エルサレムはユダヤ教の中心地として発展ていきます。 ヘロデ王のもとで、エルサレムは今に通じる多くの建造物が作られました。ユダヤ神殿も大規模改修をされ、ダビデの塔や大規模な城壁も作られました。この時のユダヤ神殿は、今も見ることができます。エルサレムにあり、ユダヤ教徒が祈りをささげているあの壁は、このヘロデ王が作ったユダヤ神殿の外壁と言われています。 そんなヘロデ王ですが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害したとも言われています。有名なエピソードが、新約聖書 マタイ福音書第2章に残っています。「イエスはヘロデ王の時代にベツレヘムで産まれたとされている。そのとき東方から来た占星術の博士たちが「ユダヤの王が生まれた」と言っているのを聞き、恐れたヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺で産まれた2歳以下の男の子を、一人残さず殺した。イエスの父ヨセフは夢に天使が現れ「エジプトに逃れなさい」と告げたので、幼子イエスとその母マリアを伴ってエジプトに逃れていたので難を逃れた。ヘロデが死んだ後にイスラエルの地に戻ったヨセフは、やはり天使の声に導かれてナザレの町に住み、イエスを育てた」との話です。 様々な逸話があるヘロデ王ですが、ローマ支配下であっても、エルサレムのユダヤ民族の立場向上のために様々な施策をした王であったようです。 しかし、ここでもまた問題が起こります。ユダヤ人たちは自分たちの宗教、生活を大切にするばかりで、ローマの社会に溶け込もうとしませんでした。支配者であるローマに、ユダヤ人を差別する雰囲気が醸し出されると同時に、ユダヤ人たちもローマ社会に対し、反発を強めていきます。多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊なもの、とする見方が強くなってしまったようです。 確執はやがて戦いになっていきました。 |
10 【ユダヤの反乱と鎮圧。そして離散へ】
66年、ユダヤ教徒の過激派が反乱をおこしました。それに対し、ローマは大軍を率いて鎮圧します。(第一次)ユダヤ戦争と呼ばれる戦いです。そして70年。ローマ軍ティトゥスの指揮する軍によってユダヤ側の本拠地、エルサレムは陥落します。そしてエルサレムの神殿は燃えてしまいました。正確にいうと唯一残ったのが西壁。そう、現在「嘆きの壁」と呼ばれる城壁以外、全焼してしまったのです。 その後もユダヤ教徒はたびたび反乱をおこします。有名なのはバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)。シメオン・バル・コクバという男が自らを救世主と自称し、対ローマ反乱に踏み切りましたが、ローマ側もドナウ川流域に駐留していた軍団を召喚するなど、強大な軍事力を使ってこれを敗退させ、そして着実にユダヤの地を再征服していきました。 ローマ帝国のハドリアヌス帝はこの地の不安定要因は「ユダヤ教とその文化自身」にあると考え、徹底的な根絶を計りました。ユダヤ教指導者を殺しユダヤ暦の廃止し、そして「エルサレム」の名ですら「アエリア・カピトリナ」とし、ここへのユダヤ人の立ち入りを禁じました。 こうしてユダヤ人たちは、国を失い、世界中に離散させられました。 紀元4世紀になってはじめてユダヤ人は、エルサレムへの立ち入りが許されますが、神殿の丘へは出入り禁止で、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことのみ許されたそうです。 ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスチナ」と定めました。これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったもので、現代まで続くパレスチナの名前はここに由来しています。 |
11 【マサダの悲劇】詳しくはここ
エルサレムとは直接関係ありませんが、やはり、ここで「マサダ」の悲劇について触れたいと思います。 紀元前120年頃、ギリシャの支配下だったとき、死海のほとりの砂漠にそびえる切り立った岩山の上にマサダという要塞がありました。これをヘロデ大王が奪い、要塞、そして冬の宮殿として大改築をしました。ここは天然の要塞というにふさわしく、山頂へは「蛇の道」と呼ばれる細い道が一本あるのみで周囲は切り立った崖。まさに難攻不落でした。 さて、ローマ帝国と戦いを始めた66年。この時はマサダにもローマ兵がいましたが、熱心党のシッカリ派という人々がここを奪取して立て篭もりました。その数967名。この籠城は兵士のみではなく、女性や子供も含まれていました。 エルサレムはすでに陥落していましたが、マサダの人々はそれでもローマに抵抗しました。ローマ軍は1万5千の兵でマサダを包囲。しかし急峻な地形に阻まれ、なかなか落とすことができませんでした。しかもマサダには水の供給路も、食料もあり、自給自足の籠城生活ができていたのです。こうして2年の歳月が過ぎました。 あるときローマ軍は、思い切った作戦に出ます。ユダヤの捕虜と奴隷を大量に動員して、山の西側の崖に巨大な斜面を築き上げ、城壁を打ち破る巨大投石器を城壁前に設置する大工事を行う作戦に出たのです。ローマ帝国と言えば、驚異的な土木工事技術で有名な文明。まず四角い木枠を骨組みとして作り、そこに大量の土砂を入れるという工法で、僅かな期間で、崖を登りきる巨大な斜面を作り上げてしまいました。 万事休す・・・。いよいよローマ軍が城壁に迫り、マサダの陥落、そして自軍の敗北が確実になったある日、マサダの指導者たちは、協議の上、とんでもない決定を下してしまいました。 当時、敗軍は。抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが常。でも自殺はユダヤ教の教えに背きます。自分たちの信念とユダヤの教えに背かない方法は・・・。 ユダヤ人たちは、異教徒の下では暮らせないとして、死を選ぶことにしました。陶片でくじをつくり、当たったものがそれぞれのグループを刺し殺し、さらにくじをひいて当たったものが残りを殺す。これならば自殺は一人でよいと・・・。 73年5月2日、ローマ軍は完成した斜面を使い、巨大な投石器を高い山に押し上げ城壁を破壊。城内に突入しました。当然、死にもの狂いの抵抗を予想していたのですが、場内は異常なほど静かでした。そう全員が死を迎えていたとのことです。この戦いを今に伝える文書「ユダヤ戦記」には967人のうち、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけが生きのびたと伝えています。 そして、この砦の攻防を機会に、ユダヤ人たちの全世界への離散はさらに加速した・・・と歴史書は伝えています。 |
12 【イエス・キリストの生誕】
では、今度はキリスト教について考えていきます。時間を少しさかのぼって、紀元前1世紀のエルサレムから考えます。ここに暮らすアンナというユダヤ人からマリアという娘が生まれました。やがて成長したマリアはある青年と婚約しますが、マリアは処女のまま子を宿します。それを告知したのが大天使ガブリエル Gabriel, גַברִיאֵל, جِبرِيل 。このシーンは多くの絵画のモチーフとなっており、ボッティチェッリやダビンチの作品も非常に有名です。 そして生まれた子どもはイエスと、名づけられました。(ちなみにイエスの祖母にあたるアンナも聖人として崇敬され、スペイン語では「聖アンナ」、つまりサンタアナ、転じてサンタナsantanaとなり、VWの車名にもなっていました。) イエスが生まれたのがエルサレム近郊のベツレヘム(ここをご覧ください)。そして、イエスが生まれた年が西暦0年であり、生まれた日が12月25日のクリスマス、ということになっています。(実際のイエスの誕生年・日は正確にはわかっておらず諸説あります。誕生年も紀元前六年〜四年頃であったらしいと言われたり、誕生日も10月ごろと言われたりしています。そして12月25日を言い出したのは4世紀半ば頃のローマ、教皇ユリウス1世あたりらしいです) イエスはユダヤ人から生まれたユダヤ教徒でした。しかし、既存のユダヤ教の在り方に疑問を持ちます。ユダヤ教はユダヤ人によるユダヤ人のための宗教であり、他教徒に対し非常に排他的な考えを持っていました。彼は30歳を過ぎた頃から、神の福音を伝えることに目覚め、宗教活動を開始しました。ユダヤ教の律法主義を否定して、ユダヤ教団のエリート層を強く非難し、神の愛を説き、身体障害者や貧しい人々こそ救われると説きました。やがてイエスの考え方は多くの支持を得て、「救世主(キリスト)」と呼ばれるようになります。 しかし、イエスを良く思わない人たちも出てきます。特に彼に批判されたユダヤ教団は彼を目障りな存在として排除をたくらみました。 |
13 【死刑判決を受けるイエス・キリスト】
イエスの動きに対し、ローマ総督ポンティオ=ピラトや領主ヘロデ=アンティパスは、預言者ヨハネとその洗礼を受けたイエスが、民衆を扇動して暴動を起こしローマに対する反乱に及ぶことを潜在的に恐れていました。そうですこの時代、統治者はヘロデ王でしたが、ローマ帝国の支配下にあったので、最高責任者はローマ総督だったのです。そして、イエスを恐れたのは最高責任者だけではありません。エルサレム神殿の大祭司、最高法院の祭司、長老、律法学者なども一様に神殿の権威を揺るがせるものであると考えていました。ユダヤ教団は、彼を死刑にすると決めます。 そんな中で、30年春。ユダヤのお祭り「過越祭」にイエスが信者を率いてエルサレムに上京するという話が流れました。民衆は救世主(メシア)の到来と受け取りましたが、ユダヤ教の指導者や保守派は、秩序を破壊する危険な動きとして領主ヘロデ=アンティパスとローマの総督ポンティオ=ピラトに訴えました。エルサレムに行けば捕らえられるということを認識しながらもイエスはエルサレムへ行き、弟子たちと最後の晩餐をし、それからオリーブ山のふもと、ゲッセマネの園で最後の夜をすごします。ここは以前よりイエスが瞑想を行ってきた場所で、現在もイエスが座ったとされる岩をまつった「万国民の教会」があります。 そして、弟子の一人ユダの裏切りなどもあり、イエスは捕らえ、 翌朝ユダヤ祭司のもとへ連行されて、裁判をうけます。弟子たちもついていきましたが、そのなかのひとりペテロは、自分にまで罪がおよぶことをおそれ、イエスなど知らないと三度ウソをつきます。その直後、鶏が鳴きました。 イエスが裁判をうけた祭司の邸宅はいま「鶏鳴教会」としてエルサレム市内に現在も残っています。 裁判の結果、直接的な証拠は見つからず、ローマ総督ピラトもいったんは無罪を宣言しましたが、民衆は「イエスを十字架につけろ」とその処刑を要求、結果的にピラトは死刑の判決を出します。 |
14 【キリストの処刑とキリスト教の成立】
死刑判決をうけたイエスは、ローマの刑法にしたがい、処刑場所まで十字架を背負って歩かされました。そして都の外れの「ゴルゴタの丘」という処刑場所につくと、イエスは両手を釘で十字架に打ち付けられ、左右から槍で突かれるという、長い苦しみの果てに殺されました。なお、この残忍な刑の執行方法ですが、ローマ支配下の当時は、一般的な方法であり、イエスは、盗みを働いた二人と共に処刑されました。この時、イエスが歩いた道はヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれ、今もエルサレムの中心にあり、多くのキリスト教徒の聖地となっています。 イエスの死後まもなく、イエスを見たという弟子たちが現れます。復活したイエスは、数々の奇跡を起こした後、オリーブ山より昇天した、とされています。イエスが処刑されたとき、弟子たちはなすすべもなく逃げ隠れていましたが、彼らはイエスの「復活」をイエスを裏切ったことへの赦しととらえ、そこに原始的なイエスの信者の団体(原始教会)が生まれました。特にユダヤ人の離散以後には、イエスの教えを信じる者たちが地中海各地で教えを広めたため、しだいに浸透していきます。 こうして、ユダヤ教を端に発したイエスの教えは、キリスト教として成立したのです。 そう、キリスト教の成立はイエス・キリストが「キリスト教を始めますよ(笑)」といって始めたのではなく、イエスの死後、彼の教えを弟子が各地に説いていった結果、キリスト教が成立した、というわけです。 はじめ、キリスト教徒はユダヤ教徒とおなじく、ローマ社会に染まらなかったので、たびたび迫害をうけました。というのも地中海世界では多神教が中心で、一神教であるキリスト教を受け入れる素地がなかった、と言えるでしょう。よってネロやディオクレティアヌスといったローマ皇帝たちもキリスト教徒を追いつめ、拷問し、殺したりしました。特に暴君ネロは、キリスト教徒を最初に迫害した皇帝として”暴君”と呼ばれるようになりました。それでもキリスト教徒は信仰を捨てず布教活動を行ったため、4世紀には地中海中に教徒がいるようになりました。 301年、黒海の南東にあるアルメニア王国が史上はじめてキリスト教を国教とします。そして313年には、ローマ皇帝コンスタンティヌスが帝国内でのキリスト教を公認しました(ミラノ勅令)。最初は迫害されていたキリスト教徒ですが、気が付くとローマ帝国内の勢力は無視できないほどに膨れ上がって、公認せざるをえないほど広がっていました。このコンスタンティヌスの母は熱心なキリスト教徒だったらしく、320年にはエルサレムを訪れて、イエスの墓を見つけだしたといわれています。そして、このイエスの墓がもとになり、「聖墳墓教会」が建てられました。 ヴィア・ドロローサ、ゴルゴダの丘、そして聖墳墓教会があるエルサレムは、キリスト教徒にとっても聖地となりました。 |
15 【新約聖書の成立】
キリスト教が成立したところで、それがどのように普及していったのか考えてみましょう。先にも述べましたが、イエス・キリストはユダヤ教徒でした。しかし「ユダヤ教を信じたユダヤ人=ユダヤ教徒だけが救われる」という選民思想に疑問を持ち、神を信じる者はだれでも救われる、という入信者を選ばない考えに至りました。またユダヤ教には非常に細かい戒律があります。律法(ミツヴァ)が613、そのうち、「してはならない」というのが一年の日数と同じで365あるといわれています。しかしキリスト教の戒律は、ユダヤ教と比べるとはるかに緩やかで、それも信仰が広がる原因になったようです。 しかし、信者が増えていくと、その教えをまとめるためのものが必要になりました。特にキリストが生誕して以降の、彼の言行をもとにした新しい聖典が必要です。そこで誕生したのが「新約聖書 New Testament 」です。「新”訳”」ではありません。イエス・キリストが神と新しく契約したという意味です。 では、「旧約聖書 Old Testament」 とは何かというと、イエス・キリストよりも前の契約、つまりアブラハムやモーセたちの契約を記したものを指します。よってユダヤ教の聖書「タナハ」は、キリスト教徒からは「旧約聖書」と呼ばれるようになりました。 ここでのポイントは「旧約聖書」「新約聖書」というのは、キリスト教での言いかたであり、ユダヤ教徒からすれば旧約聖書は「なんで旧約っていうんだよ」「古くねーよ。今使っているよ」「そもそも、勝手に新しいもの出してんじゃねーよ」となるわけです。 そんな新約聖書ですが、最初のうちは、様々な解釈があり、内容にブレがありました(神学論争)。有名なのは、「イエスは神か人間か」という話題ですが、多数決で神と決まりました。こうした会議(ローマ皇帝による公会議開催やニケーア公会議など)を経て、現在の聖書が形づくられて行きました。 非常に大きな議論になったのは、「三位一体説」と「単性説」です。「父と子と聖霊」は本質において同一であるというのが三位一体説であり、イエスは唯一、神性のみを本性とするというのが単性説です。結局「三位一体説」が優勢となりましたが、エジプトのコプト教会、アルメニア教会、エチオピア教会などは単性説を捨てず、異端とされましたが辺境にあったため干渉されず、信仰が守られて現在に続いています。 |
16 【ローマ帝国の分裂と、キリスト教宗派の分裂】
そのころエルサレムは ユダヤ人が離散させられた後、エルサレムはローマ帝国の支配下に置かれていました。しかしどんな文明でも衰退の時は迎えます。強大な勢力を誇ったローマ帝国ですら、莫大な戦費による国力の低下、後継者争いなどの結果、西暦395年に東西に分裂し、事実上終わりを迎えました。東西分裂後、東ローマ帝国はやがて、ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれる国となり、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで1,000年以上にわたって続きましたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の中、476年に滅亡してしまいます。 時を経て、キリスト教自体もいろいろな宗派が生まれ、そしてその宗派ごとに争いも起こりはじめました。395年のローマ帝国東西分裂のあと、西はローマ、東はコンスタンティノープルの教会がそれぞれ正統性を主張し対立を始めます。 エルサレムのあるパレスチナ一帯は、東ローマ帝国の領地となりました。しかし、どの宗派であっても、イエスの象徴的な聖地である聖墳墓教会は、非常に大切なものとしていたので、ここをめぐってもさらに争いは続きます。 現在、聖墳墓教会の祭壇が二つあるのも、それぞれの宗派が覇権を競い、争った結果それぞれがそれぞれを管理することになっています。実際の祭壇には様々なランプなど装飾品が飾られていますが、その一つ一つに宗派の違いが表現されています。 そして現在に至っても、宗派争いは絶えません。有名なところでは、2008年4月20日。聖墳墓教会の中で礼拝に出席していたギリシャ人とアルメニア人数十人の間で乱闘が起こり、警官隊が仲裁のために教会内になだれ込む騒ぎとなりました。この日は、正教会の「聖枝祭(Orthodox Palm Sunday)」でした。ギリシャ正教(Greek Orthodox)の司祭をアルメニア人の礼拝出席者らが教会から追い出したことから始まりました。 警官約20人が現場で仲裁に入ったのですが、数人の礼拝者らが「聖枝祭」の儀式で手に持っていたヤシの枝葉で警官を殴りつけたところ騒ぎが大きくなったようです。 また、キリスト教徒とユダヤ教徒とのあいだでも争いは常に起こっていました。キリスト教徒からすれば、イエスキリストを殺したのはユダヤ教徒だと考えていましたし、ユダヤ教徒からすれば、イエス・キリストたるものは、ユダヤ教の考えをもとに、ユダヤ教に反旗を翻した一信者であり、しかも勝手に「新約聖書」とかいう、聖書の続きを勝手に書き足したまがい物を信している許せないやつら、と感じていました。しかし、すでにキリスト教はローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ各地に信者を劇的に増やしていたこともあり、結果的にユダヤ教徒は迫害を受けました。 しかし、戦いは「ユダヤ教 VS キリスト教」だけではなかったのです。ユダヤ教が一番最初に神からの啓示を受けた宗教だとすると、その神の子であるキリストのキリスト教が2番目。そして、同じ神はまたもや別の預言者に言葉を託したとする新しい宗教の波が生まれていました。そうイスラムです。 そして最新の宗教であるイスラムは、エルサレムにも迫っていたのです。 |
17 【イスラムの誕生】
時は流れて6世紀。中東あたりでローマ帝国だのヨーロッパ諸国だの争いが続いていた時、その争いを避けるような形でアラビア半島沿岸の人と物の流れが活発化しました。そして西と東を結ぶ中継貿易の拠点として「自由都市」と呼ばれる交易が盛んな都市がいくつか生まれます。そんな自由都市のひとつ、メッカ مكة Makkah という都市に、ムハンマドという男の子が生まれます。幼くして家族を亡くし、叔父のもとで成長した彼は、25歳で裕福な未亡人ハディージャと結婚し商人として活躍しました。 ところが40歳のころ(西暦610年ごろと言われています)、思うところあって、メッカ北東のヒラー山近くの洞窟で瞑想を始めます。そしてある日のこと、突然何者かに体を押さえつけられます。そして「私の言うことを唱えなさい」という声を聴いたのです。声の主は、大天使ガブリエル(ジブリール)。そう、あのイエス・キリストの母マリアに受胎告知をした、あの天使がムハンマドのところにも現れ、神の言葉を預けたのです。 彼ははじめ自分の置かれた位置を理解していなかったのですが、妻の助言もあり、自分は神の言葉を預けられた「預言者である」と考えるようになりました。これがイスラムのはじまりです。 しかし、彼の教えはなかなか理解されませんでした。というのも、このころアラブの世界は「多神教」の考えでした。考えてみれば、古代ギリシャも古代エジプトも様々な神々が存在する多神教です。それに対し、一切の偶像崇拝を禁止するムハンマドの教えは、異端とされ、圧力をかけられ、迫害されてしまいました。特に強力に庇護してくれた伯父アブー・ターリブと、妻ハディージャが相次いで亡くなりメッカでの活動に限界を感じ始めます。ちょうど、ヤスリブの住民からアラブ部族間の調停者として招きたいという余生もあり、彼は、自分の教えを守るためにメッカからはなれ、ヤスリブ(現在のマディーナ、メディナ)という街に逃れます。 この信仰を守るためのムハンマドがヤスリブに逃れた西暦622年の出来事を「ヒジュラ(هِجْرَة Hijra)」と言い、イスラム世界では非常に象徴的な出来事になっています。この622年7月16日をイスラムの歴史が始まった年と考え「ヒジュラ暦( التقويم الهجري Hijri calendar)」が始まります。 |
18 【ミウラージュの奇跡 (ムハンマドとエルサレム)】
イスラムの預言者ムハンマドとエルサレムが結びつくエピソードが「ミウラージュの奇跡」と呼ばれる出来事です。これは預言者ムハンマドが一夜にしてメッカからエルサレムへ飛び、そこからさらに天の世界にのぼり、そしてアラーの神の御前に招かれた、とされる出来事です。この時期、ムハンマドは、異教徒の攻撃に苦しんでいた時期だったことに加え、最大の理解者だった妻のハディージャと、精神的後見人であった伯父のアブー・ターリブが続けて亡くなるなど困難を抱えていた時でした。神は、神の存在を示し、宗教をほめたたえるときに見せた威厳ある態度を継続すること、もっと強い意志を持つようにと、預言者にこの旅をさせた、と伝えられています。 預言から11年目のレジェブの月の27回目の夜。ムハンマドは、メッカのマスジド・ハラームにて天使ジブリエールの訪問を受け ました。天使ジブリールは、訪問の目的を話した後、旅の準備として、ムハンマドの胸を切断し、ザムザムの泉で洗われて、知恵と信仰で満たしました。(いきなり?胸を切断?と思うのは、現代の日本人だからであって伝承の話からするとそれほど違和感を覚えない流れのようです).そして天使ジブリールはムハンマドを天馬にのせ、エルサレムにあるかつてのソロモンの神殿跡、アル=アクサー・モスクに連れていき、そこで2回、レキャットの祈りを捧げました。これがいわゆる「夜の旅 Al-Isra الإسراء 」とよばれるものです。それから空にのぼり、7階あるといわれている空の各階で、過去の預言者たちと出会いました。 第1天では、ムハンマドをアダムが迎える。アダムは人類の祖ですが、イスラムの教えでは「最初の予言者」でもあります。第2天では、洗礼者ヨハネとイエス・キリストが迎えました。2人はムハンマドに対して「ようこそ、心正しき兄弟にして心正しき預言者よ」と挨拶します。第3天には「旧約聖書」のヨセフ。第4天にはイドリース(「旧約聖書」のエノクと考えられる)がいます。第5天には「旧約聖書」のアロン=モーセの兄がいて、第6天には、モーセがいました。そして最後の第7天に上ると、そこではアブラハムが待っていました。そして第7天の先には天使がアラーを讃える「館」があり、ムハンマドはさらに「スィドラの樹」に至りました。こうして7層の天を進んでいく度に預言者同士が面会しあい、一神教の信者がより一つにまとまることが重要だと指摘されたと記されています。旅の終わりに預言者ムハンマドは、マナの世界でアラーの御前に向かいました。そして偉大なアラーの神から伝えられたいくつかの命令を受け、一組の褒美と共に御前から立ち去りました・・・。 これがいわゆる「昇天の旅 Mi'raj والمعراج」と呼ばれるもので、 イスラム教徒は、ミウラージュの奇跡が起きた夜を、祝福が舞う聖なる夜のひとつとし、毎年カンディルの夜として祝っています。 この昇天体験の翌年、ムハンマドはメッカをすてて北の都市メディナへ移り住み、そこでイスラム共同体をつくりあげます。 政治と宗教が一体となったイスラム共同体はやがてメディナの街を支配し、630年にはメッカも征服します。その後イスラムはアラビア半島の大部分を支配していきました。 632年、ムハンマドが亡くなると、彼の親戚たちが跡をつぎ、支配をさらに広げていきます。第2代のカリフのウマルは、シリアに進出し、ビザンツ帝国軍を撃退しながらエルサレムに侵攻していきます。長い包囲戦の結果、ビザンツ軍は撤退、エルサレムはウマルに講和を申し入れました。638年2月、エルサレムに入ったウマルは住民の安全を保障し、キリスト教の聖墳墓教会の存在も認めるという寛大な措置をとり、エルサレムは両宗教の併存する都市となりましたが、エルサレムの町は、キリスト教からイスラム教が支配する町へと変わっていったのです。 イスラム教徒たちはエルサレムを、ムハンマドの昇天体験の地として崇め、天に昇った場所、つまりかつてユダヤの神殿があった丘に「岩のドーム」という会堂を築きました。また「岩のドーム」の近くには、昇天を記念してアル=アクサー=モスクも建てました。この場所はアブラハムが息子を神にささげようとした場所でもあり、ユダヤ教にとっても聖地でもあります。こうしてエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教にとっても大切な聖地となったのです。 |
19 【3つの宗教の神と聖地】
ニュースなどで「イスラム国」「IS」「ビンラディン」「タリバン」などの話が出ると、とにかく「テロ組織」「怖い集団」と感じ「イスラムってなんか怖い」って印象を持つ人が多いと思います。でも、本来のイスラムは全く違ったものなのです。本来、イスラームとはسلام islām とは「(神に)すべてをゆだねる人」という意味で、アラーの神に全てをゆだねる、ささげる人を意味しています。ですから、どんな幸福も神のおかげとして感謝し、どんな苦難も神の思し召しとして耐えしのびます。 その「神」ですが、イスラムの神は「アッラー」と呼ばれます。アッラー الله, Allāhとは、キリスト教でいえばThe God、ヘブライ語では、ヤハウェ יהוהと称します。アッラーとはもともとアラブ人の間で信仰されていた神の一つでしたが、ムハンマドによって唯一の絶対神となりました。 そうなんです。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教は、実は同じ神、同じ聖地を持つ宗教なのです。 (近年、「イスラムは社会生活すべてを表すものであって、宗教的側面だけでないので、「イスラム教」と記述せずに「イスラム(イスラーム)と記述する方がよい」との学説を唱える方もいらっしゃいます。確かにその通りかと思いますが、この稿では宗教的側面を中心に見ていきますので、イスラム教として記述していきます。) 一番最初が、ユダヤ人によるユダヤ教。この時、神から啓示を受けたのが預言者モーセでした。モーセはシナイ山で十戒を授かり、ユダヤ人のためのユダヤ教の始祖の一人になったことは前述したとおりです。そして、そのユダヤ教を、ユダヤ人以外の人々でも「神を信じる者は救われる」と愛を説いたのがイエス・キリスト。彼は神の子であり、救世主(ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリスト)として存在するのですが、湯田教にとってイエスは、反旗を翻した一信者、ということになります。イスラム教にとっては、ムハンマドは、神の意見を預かった預言者であり、そして最終的、最高の預言者、ということになります。イスラム教徒からみてキリスト教も、ユダヤ教も存在は認めますが、イスラム教はそれらを超えた最終的な教えということになります。聖書に関していえば、ユダヤ教の教えが書かれているのが、聖書はキリスト教徒にとっては「旧約聖書」となります。主にイエス・キリストについて書かれている新約聖書をユダヤ教は認めていません。そして、アッラーがムハンマドに語った言葉が「コーラン رآن Quran」。(最近の教科書の記述では「クルアーン」ですね。もっと正確に言えば、アラビア語では定冠詞を伴ってアル=クルアーン القرأن となるようです。)イスラム教にとっては、旧約聖書も新約聖書も認めますが、それよりも最新そして最終の教えが書かれているコーランが何より、となるわけです。 ムハンマド自身は文字の読み書きができず、彼が語った言葉を弟子たちがまとめたのがコーラン、とのことですが、全部で114章もあります。コーランの中身ですが、ニュースなどでイスラム教徒の戒律として「豚肉を食べてはならない」「酒を飲んではならない」「女性の肌を見せてはならない」などをお聞きになったこともあるかと思いますが、実はイスラム教の戒律は、キリスト教よりも緩く、より現代に対応できるようになっていることも多くあります。例えば、結婚・離婚についてカトリックでは「絶対に離婚してはならない」ということも多いのですが、イスラムでは、離婚してもいいように、結婚時に離婚時の慰謝料を定めておき、嫁の実家に事前に婚資(マフル)を支払うなどより現代に即した内容になっています。 ごく簡単に言うと、イスラムは基本的に「アッラーの下ではみんな仲間」であり、「(一日5回)お祈りをすること」が大切と説かれており、様々な文化的背景を持つ人々にも違和感なく信仰できる宗教になっています。結果的に、はじめはアラブ人だけが信仰していましたが、やがてペルシア人はじめ多くの民族がイスラム教徒になり、今日、世界16億人が信仰する世界宗教となっていったのです。 |
20【世界を混乱に陥れた「十字軍」】
話をエルサレムに戻しましょう。3つの宗教の聖地、エルサレムはイスラム教徒が支配する町でしたが、キリスト教の聖地、聖墳墓教会の存続は認められ、不十分な形ではありましたが、ある程度の和平を保っていました。 その均衡を破ったのが、キリスト教徒の聖地奪還の戦い、そう「十字軍」の派遣でした。 イスラム教は、一神教の流れからみずからを、ユダヤ教やキリスト教の後継者だと考えていました。 ムハンマドによると、モーセもイエスも唯一神アッラーから啓示を受けた預言者だけど、その教えが正しくない部分がある。自分もまた神から言葉を預かった預言者だが、最後の預言者でもある。だからコーランこそ、いちばん正しい教えを伝えているのだ、と。 確かにコーランには天地創造や最後の審判についての記述も載っていたのですが、このイスラムの考え方にユダヤ教徒やキリスト教徒は反発しました。特にユダヤ教徒には、エルサレムへの立ち入りを認めていたのに、キリスト教徒にはそれを禁止するということもあり、反発を強めていきました。 このころ、ローマ帝国のキリスト教の国教化に伴って、ヨーロッパのキリスト教の力ば増大するばかり。「カノッサの屈辱」に代表されるように、キリスト教のトップ教皇が、神聖ローマ帝国皇帝を下に見る、ということがまかり通るほど、キリスト教の隆盛は目を見張るものがありました。 教皇は、自分の権威をさらに高める目的もあり、「聖地エルサレム」の奪還を口にし始めます。 そして、1099年、ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより集まった西欧諸国の騎士のみならず、一般の民衆も集まり戦隊を結成。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破り、1099年7月15日にエルサレムを占領します。この軍事行動は、キリスト教徒がイスラム教徒に勝利したということだけでなく、西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、欧州史における重大な転換点となったといわれています。 ただし、その戦闘はすさまじいものでした。エルサレムになだれこんだ十字軍は、イスラム教徒とユダヤ教徒を虐殺します。ダビデ・ソロモン王時代の遺跡、嘆きの壁、ヴィア=ドロローサ、聖墳墓教会、岩のドーム、アル=アクサー=モスクなど、エルサレムのあらゆる場所が血で染まりました。記録によると7万人以上の犠牲者が出たと伝えられています。キリスト教徒は、イスラム教徒にとっての聖地、神殿の丘のモスクを破壊し、そこに教会をたてました。そして、十字軍はエルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群をパレスチナに建国し、イスラム教徒とユダヤ教徒を市内から追放しました。 しかし1187年。イスラムの武将サラディンによって、エルサレムはふたたびイスラムのものになりました。サラディンは、アイユーブ朝の創始者で、軍事に長け、寛容な人物として今も語り継がれている英雄です。若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢を辞めるなど、機を読むことに長けていたようです。エルサレムを占領したサラディンはキリスト教徒を殺さずに退去を命じ、捕虜となったキリスト教徒たちもみずから買い上げて解放してやりました。 十字軍自体は、第2回十字軍(1147年)、第3回十字軍(1189年)、第4回十字軍(1202年)、第5回十字軍(1218年)と続きますが、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを占領したり、目的地がエジプトになったりと「聖地奪回」という当初の目的すら怪しくなりながら、何度も何度もイスラム世界を攻撃します。しかし、結局軍事的行動ではエルサレムは奪回できず、ここから700年あまり、エルサレムの街はイスラム支配下でほぼ安定した時代が続きました。 |
21【十字軍時代の無血での和平】
キリスト教国が力をつけるに従い、聖地エルサレムがイスラム世界の配下にあることが許せなく、大規模な軍隊を派遣し、エルサレム奪回を図った十字軍遠征。200年続いた十字軍の攻防は、イスラム世界にとっては「悪魔の所業」といえるほど理不尽な戦闘であったのですが、キリスト教世界においてもその弊害は大きく結果的に諸国を疲弊させ、教皇の地位を落下させた所業、ともいえると思います。しかも、この時期、イスラムの人々も、キリスト教徒もお互いの文化や宗教を全く理解せず、キリスト教徒の多くは「地上でいくら罪を重ねても、イスラム教徒を殺しさえすれば天国へ行ける」と真剣に本気で信じていたほど、お互いを忌み嫌っていました。 そんな両者はただひたすら対決していたのですが、そんな血で血を洗う時代にあっても、一滴の血も流さず、両者が和平条約を結びエルサレムが平和に訪れた時期がありました。この話は様々な事情があり、歴史の狭間に埋もれてしまい、語り継がれて来なかったのですが、ここでは簡単に振れたいと思います。 和平を成し遂げたのは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II.,1194年12月26日 - 1250年12月13日)と、イスラム、アイユーブ朝の第5代スルターン、アル=カーミル(al-Malik al-Kāmil(在位:1218年-1238年)。歴史から見れば、200年続く十字軍の歴史の中で130年ほどたった時期ですので、十字軍遠征の中間のやや後の時代の話です。 イタリア史では、フェデリーコ2世(Federico II)と呼ばれるフリードリヒ2世は、シチリアの王子で20歳の若さで神聖ローマ帝国皇帝に選出されます。シチリア王国は、交易上イスラムやギリシャ世界ともつながりも深く、彼は幼少期から多彩な文化の中で生きて、アラビア語をはじめ7か国語を操れる多彩な人物であったようです。特に自然科学には深い造形を持ち、イスラム世界の自然科学には敬意を払い、アラブ社会の科学や知識を吸収しながら成長していったようです。皇帝就任後、宿敵であるはずのアラブの盟主アル=カーミルの使節を受け入れた時、使節団は、新皇帝のイスラム世界への深い理解に驚き、そこからアル=カーミルとの文通が始まった、と言われています。二人は天文学や自然科学の話題をアラビア語で交わし、友情をはぐくんでいったようです。 しかし、二人は十字軍で考えると敵味方の関係。しかも、この神聖ローマ帝国皇帝は「十字軍で、聖地エルサレムを奪回すること」を誓って就任したもの。よって、なかなか十字軍を招集しない彼に、ローマ皇帝からは破門をちらつかせられながら、十字軍遠征の要請が何度も来ていたそうです。そして、1228年、フリードリヒは150隻、40,000人の軍を率いてエルサレムに向かいました。世にいう第6回十字軍の戦いです。この道中、船内でチフスが流行。フリードリヒ自身も病にかかり、引き返してきたところ、教皇グレゴリウス9世は、エルサレムの地を踏まず逃げてきたものとして、フリードリヒを破門します。 破門された人間は、キリスト教信者と関わっていけないなど、当時の世界においてこの「破門」は一切の社会生活を奪われることを意味します。落胆したフリードリヒは、教皇に反発する手段として、とんでもない方法をとります。 十字軍の前線基地であった現イスラエルのアッコーに行き、そこを拠点として、アル=カーミルと直接交渉に乗り出したのです。「エルサレムをキリスト教徒に渡してほしい」と。 当然、アル=カーミルは反対し、交渉は難航します。フリードリヒは拠点をエルサレムに近い(現在のテルアビブの近くの)ヤッファにうつし、結果的に半年にわたる激しい交渉の末、今まで誰もが成し遂げなかった、無血での和平条約締結を成し遂げます。1229年2月11日のことでした。「ヤッファ条約」と呼ばれるこの条約は、10年間の期限付きではありましたが、非常に意義深いものであったと思います。その内容ですが、キリスト教徒、そしてイスラムの人々にも互いに配慮するものでした。 1 エルサレムはキリスト教徒が管理をする。 2 (イスラムの聖地である)神殿の丘はイスラム教徒が管理をする。 3 皇帝はこの条約に反対する勢力に物資を補給しない 4 もし、キリスト教徒の一部が、この条約に違反し、イスラム教徒を攻撃することがあれば、皇帝はイスラム教徒側につく。 なんと、それぞれの聖地はそれぞれが管理できるだけでなく、フリードリヒは、十字軍が攻めてきた場合はイスラム教徒側につくことも明記していました。 こんな画期的な条約を結んだフリードリヒですが、母国へ帰ると「悪魔と契約を交わしたもの」として教皇側の軍隊に取り囲まれ、そしてその後も不遇な人生を送ったとのことです。アル=カーミルもキリスト教徒と契約を結んだものとして強い非難を浴び、バクダッドのモスクではアル=カーミルの糾弾集会が開かれたとの記録も残っています。 とは言いながらも、この和平条約によりエルサレム及び地中海周辺は平和になり、商業や交易が盛んになったそうです。しかし、10年後、条約は破棄され、エルサレムは再びイスラムの手の中に。キリスト教徒側も十字軍を編成して攻撃しますが、二度とキリスト教徒の手にエルサレムが入ることはありませんでした。 アル=カーミルは条約締結の9年後、つまりまだエルサレムが平和な時代に亡くなりましたが、フリードリヒは生涯、教皇から敵とみなされ、いまだに破門は解かれていません。 現代でさえ、どうやって解決していけばいいのか先が見えないエルサレムに関わる争いのなかで、お互いを尊重し、話し合いだけに寄って和平を成し遂げた二人のリーダーの偉業は、もっともっと評価されてもいいエピソードだと思います。 |
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