フィレンツェ歴史地区
Historic Centre of Florence
日本観光客も多く、私たちにとって非常になじみが深い街。日本語でフィレンツェ。イタリア語でも同じ。ただし、英語ではフローレンスとなる「花(華)の街」になります。古代ローマの名将カエサル(シーザー)が紀元前59年にアルノ川北側に植民地を築いたのがこの街の始まりであるとされています。この街の発展の鍵となったのは毛織物産業でした。フランスやブランドル地方から仕入れた羊毛と東のレヴァント地方から仕入れた染色材を用いて上質な毛織物を生産、それをヨーロッパ各地などに輸出して発展してきたらしいのです。工業の発展は商業を発展させ、結果的に金融業の発展も見ました。13世紀当時、ヨーロッパで最も価値があるといわれたのが、この国の通貨、フローリン金貨だったという話もあります。そして、フィレンツェと言えば絶対に忘れてはならない家系もあります「神にまで金を貸している」と豪語するほどの財力を持っていたメディチ家です。このフィレンツェという街はそれ自体が歴史そのものと言って良いのですが、特にそれを象徴しているのは建物、橋、壁等に残る「百合と丸薬」です。この紋章はメディチ家のものです。丸薬はメディチ家のルーツとなる薬屋から来ていて、百合の花は巨万の富を手に入れヨーロッパ各地に巨大な銀行網をもつこの家族にフランス王室が財政的に救われたことのお礼としてフランス王室と同じ百合の花を紋章に加えるのを許したためだといわれています。紋章たちは600年近くたった今もここがあのルネッサンス発祥の地であることを静かに語りかけているようです。資料によると、1457年の税金申告書にあるメディチ家の所得は11万5170フローリンで納税額は575フローリン。もちろん筆頭納税者で2位から5位までの納税額を足してもかなわないほどの金額だったようです。ここまでの富を得られた理由はいくつかありますが、その一つとして当時、貿易中心に事業を行っていた他の銀行に比べて金融中心の銀行事業を行ったため、という説があります。確かに海賊も多く、船が難破してしまう危険もある貿易はリスクの大きい仕事かもしれません。またその莫大な資金力で各国の国王や、法王に融資をしたことも大きいらしいです。当時は金を貸して利子をとるのはキリスト教見地からみると大罪にあたるということのようで、普通は好んで金を貸したりしなかったらしいのです。ましてや相手が国王となると取り立ても、尚更しにくくなるはず。メディチ家ももともと利子は当てにしなかったらしいのですが、それよりも金を貸している事により、商売上の便宜を図ってもらう意味合いが強かったようです。法王といえば、ローマ法王とメディチ家の結びつきは強く、メディチ家の銀行網は全世界に広がっていたが、中でもローマ支店はローマ法王専用の支店で、一般庶民相手には業務を行わなず、ローマ法王が会議や戦争でローマを離れるときには、一緒についていったというからおもしろいですね。 ・・・等々興味深い話は事欠かないこの街。世界遺産にふさわしい文化と歴史を兼ね備えています。