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 () エルサレムの旧市街とその城壁群    (ヨルダンによる申請)
Old City of Jerusalem and its Walls   (Site proposed by Jordan)

 

 
聖地エルサレム。少しでも世界情勢や世界史をご存じの方には、何の説明も必要ないと感じるほど、世界史においても現代世界においても非常に重要な場所です。有史以来この場所をめぐりどれだけの方が命を落としたのか、想像すらできません。世界の動きと宗教を考えるうえで欠かせない、そんなエルサレムを紹介しましょう。

 

 

 

 

ダマスカス門 Damascus Gate   שער שכם‎. باب العامود‎
では、ダマスカス門周辺から、エルサレム旧市街に入っていきましょう
ここが門周辺。エルサレム新市街の中心はここを右に曲がっていった方向です。
門の外側にはアラブの世界のようなお店が並びます。
・・そりゃぁ、この場所も1963年の第三次中東戦争以前はヨルダン領だったので、アラブの国の雰囲気を出しているのも当然だと思います。
そしてこれが、ダマスカス門 Damascus Gate   שער שכם‎. باب العامودです。門の入り口には軍(警察?)が常駐し、検問・荷物チェックこそないですが、それなりに物々しい雰囲気。では中に入ってみましょう!‎

 

ムスリム地区 حي مسلم מחוז מוסלמי  、 キリスト教徒地区 الحي المسيحي מחוז נוצרי

「エルサレム旧市街」と聞いて、漠然と「歴史ある宗教施設と、民族の争いの場所」と考えていたのですが、いきなり出迎えてくれたのは、雑踏とした日々の人々の営み。ここは香辛料屋さん。
そうそう、ここはアラブ人が多くすむ、ムスリム地区です。よって、ここは、アラブの町によくあるスーク(市場)になっています。すこし環境に配慮した精肉店もありました。
女性衣料店。「このワンピース、エルサレム旧市街のお店で買ったの・・」なんていう会話がなされるのでしょうか・・・・。
鮮魚屋さんです。海から運んでくるのでしょう・・。
どうみてもアラブの国に来ている気がします。
意外と多いファッション店。おしゃれな服が多い気がします。
生活日用雑貨店もありました。
靴屋もありました。待望の作屋さんです。実はここのエルサレム旧市街を訪れる直前、パレスチナに行っていたのですが、その際、1足しかない靴を泥水に水没させてしまい、どうしても洗うか新しい靴が必要だったのですが、試し履きをする際、すでに異臭がしそうな足を新品の靴に入れることはできず、泣く泣く通り過ぎました・・・。
ガスコンロまで売っていました。本当に生活に必要なものが難でも売っている感じです。・・・本当にここが”あのエルサレム旧市街”?と感じてしまうほど。
・・アラブ世界のスークは、店の奥はこんな風景もいつもの感じ。
そして狭い路地は、人であふれています。
住人の方、そして旅行者の方、巡礼に訪れた方・・。目的は様々ですが、非常の多くの様々な民族の方が歩いていました。
そして道も、今までの歴史を反映して、様々に入り組んでいます。
比較的整備されている場所もあります。
そして大きな建物の脇にはこんな道路も作られていて、迷いさまようことになります。
大きな通りには、それなりに通りの名前がついています。ヘブライ語、アラビア語、ラテン文字で書かれているので、それなりにわかるのですが、何しろ道自体が入り組んでいるので、自分がどこを歩いているのかよくわからなくなりました
こんな地図も売られていますが・・。
そして街角に突然出てくる歴史的なもの。
”聖母マリアのアーチ”とあります。これが他の場所だったら「〇〇にちなんで」で済むのですが、ここはエルサレム。「聖母マリアが(実際に)〇〇した場所」ということだと思います。
ここも伝説の場所か、と思ったら「電動バイクに乗って通行することは禁止」だそうな。
お土産や織物のお店
旧市街は内部はかなり複雑なものの、大きな角にはこんな看板「まっすぐが嘆きの壁で、左に曲がると聖墳墓教会」なんてのがが出ていますので、テキトーに歩いていてもそれなりに動けます。(・・自分は結局、一度も地図を開かず歩き回ってしまいました・・・。)
すこし外れにくると、屋根がなくなりました。
中心から離れれば離れるほど敷地に余裕がありそうです
道路などもきれいになっています
そうそう、こういう看板を頼りに動いていきます。
自分が訪れたとき(2019-12~2020.1)、天気が悪い時間も多く、突然の大雨に折りたたみ傘を買ってしまいました。600円ほどで中国製でした・・
様々な表示があるので、それを頼りに歩きますが、実際はあまりにも複雑で、行きたい場所にすんなりいけませんでした。

全てのものが歴史的建造物です

正教会の教会かな?
比較的新しい通りですね。
いくら歩いても見切れないほど歴史的建造物ばかりの町です。

 

ヴィア・ドロローサ 悲しみの道 Via Dolorosa The Via Dolorosa,Sorrowful Way . Way of Suffering, ויה דולורוזה, طريق الآلا‎
外国のガイドブックには「世界で最も有名な道」と書かれているのが、ここ。ラテン語でヴィア・ドロローサ、日本語では「悲しみの道」と称されます。キリスト教徒の方にとっては、大切な大切な道・・・。 それはここが、「無実の罪をきせられたイエス・キリストが、死刑になるために自分で重い十字架を、刑場となるゴルゴダの丘まで運んだ道」だからです。
さあ、キリスト教世界であまりにも有名な道、ヴィア・ドロローサを歩いてみましょう!
始発点はエルサレム旧市街北東のイスラム教地区にあるライオン門付近、終着点は旧市街北西のキリスト教地区の聖墳墓教会内にあるイエスの墓になります。
自分はこの道を何度も歩いたのですが、当然ガイドもなく、地図もなく行き来していますので、出てくる順番やもしかすると内容が違っているかもしれませんがご了承ください。
8番目。イエスがエルサレムの娘たちに泣くなと語った場所。
に相当する。その間、始発点と終着点を含めた計十四箇所に留(りゅう)と呼ばれる中継点が設けられており、第9留までが旧市街の入り組んだ路地の途中に、残りの五つが聖墳墓教会の内にある。毎週金曜日の午後3時(サマータイムの期間は午後4時)になるとフランシスコ会の主催で大勢の聖地巡礼者、並びに観光旅行者が旧市街地の繁華街を練り歩く
イエス・キリストが手をついたといわれる場所。
雑踏の中で、母マリアを見かけた場所です。パレスチナのベツレヘムにも行ってみましたが、ここは本当にイエスや聖母マリアの足跡がそのまま残っている地であることを改めて感じます。
さあ、いよいよ最終目的地が近づきました。でもその場所にはこんなものも売っていました。
第10ステーションは↑この写真の右端の張り出した建物。

 

聖墳墓教会  Church of the Holy Sepulchre . Ναός του Παναγίου Τάφου ,
Ecclesia Sancti Sepulchri , כנסיית הקבר‎, كنيسة القيامة‎

ヴィア・ドロローサの最終地がここ聖墳墓教会。イエス・キリストが十字架に磔にされてしまった「ゴルゴダの丘」も、イエスの墓もここにあるとされています。キリスト教世界で最も大切な場所、と言ってもいいかもしれません。言い換えると、これがここにあるので、キリスト教国は、ユダヤ教、イスラム教の方々とエルサレムの覇権を争っている、とも言えます。
ヴィア・ドロローサの最終地はこのゲートをくぐった先の・・・
そう、聖墳墓教会  Church of the Holy Sepulchre です。
正面の鍵です。古ぼけた、でも使い込んでいる単なるカギに見えますが、これにも重要な意味があります。実はこの鍵を管理しているのはイスラム教徒なのです。毎朝、キリスト教徒が開門を待つ間、イスラム教徒の鍵開け係が、会場の儀式を行い、ここの鍵を開けるのです。
それは、ここがイスラム教徒に占領された跡、時のスルタン(イスラム教徒の最高権力者)は「聖墳墓教会の存続を認めるかわりに、鍵の管理はイスラム教徒とする」と定めたのです。以来800年間、毎朝、イスラム教徒による「鍵開けの儀式」が執り行われ、それは現在も続いている・・・とのことなのです。
教会を入るとすぐ右手に大勢の人が並んでいました。そしてその人々は階段を上ろうとしています。
階段はよく見ると、上の段に通じているようです。エルサレムは歴史あるものだらけの場所ですが、この石段は特にすり減っているようです。でも、この階段は・・・・。
実はこれが、ゴルゴダの丘 なのです! この階段は、かつてのゴルゴダの丘に通じる道の上につくられている、と言われています。
こうやって写真を撮るといかにもすごそうな階段に思えるかもしれませんが、その実、わずか20段もないでしょう。実際は一般家庭の2階へ行くよりも短い階段しかありません。「ちょっと中二階に上がるよ・・・」という感じの階段ですが・・。
階段上から今いた場所を振り返ります。聖墳墓教会に入ってきた場所(変な言いかたですが、例えばホテルでいえばロビー)です。
つまり、この高さが「ゴルゴダの丘」というわけです。そして、振り返って前を見ると・・。
イエス・キリストが処刑されてしまった場所が目の前に!
さて、「コゴルゴダの丘」を下りましょう。
こんな階段ですいすいと降りられてしまいます・・。
イエス・キリストが十字架の上で絶命した後、その亡骸を安置し、香油を塗ったとされる石板 「塗油の石 Anointing Stone」 です。
キリスト教徒の方にとって、ここも非常に貴重な聖地であることは間違いありません。
多くの方がしみじみと見入っていました。雑踏の中でも静かな時間が流れていました。
では、地下の祭壇に向かっていきましょう。ここには様々な年代のものが安置されています。
この地下の洞窟には、旧約聖書・創世記のアダムとイブのアダムの墓がある、とも言われています。神が世界を作った後、初めて作った人間・・・と称されるアダムです。
地下の奥まった場所にはこんな祭壇があります。
壁には、よく見ると十字架が多数彫られている場所もありました。神聖ローマ帝国時代に派遣された十字軍が(一時的に)エルサレムを奪還した際、歓喜のまま彫り込んだとのことです。
言い伝えでは、この地下に「アダム」も埋葬されている、とのことです。ただし、あまりにも昔のことで、しかも神話の中の話でもあるので、実際の発掘は困難だと思いますが。
そして、第14ステーション。イエスの墓がある場所です。正確に言えば、イエスの墓の位置は諸説ありますが、この礼拝堂が、300年に建てられ、聖墳墓教会たるゆえんである、とされています。墳墓ここにも多くの信者が礼拝の順番を待っていました。

 

ユダヤ人地区الحي اليهودي רובע יהודי
ユダヤ人が暮らしている地区もあります。他の地区と比べすべてがきれいに、整備されているのが特徴です。
「予想される壁の高さ」とあります。おそらく古代ユダヤ王国のソロモン王の時代の第二神殿の壁を指していると考えます。
「町の位置」の表示。実際のこの場所は、他の建物のある床面より数メートル低く、穴のようになっている場所ですが、そこまで掘ると2000年前の都市のあとがある、ということなのでしょう。
イスラエルタワー。第一神殿のモデル・・・とすべてが同じ方向に向いているのがポイントです。つまりすべての史跡が同じ場所にある、言い換えるとそこにしかユダヤの遺跡は残っていないことを示しています。表示言語の順番もヘブライ語、アラビア語、英語ってのもポイントです。
この場所を説明している地図です。これを見ると、この位置は現在の嘆きの壁、つまりヘロデ王の神殿のすぐ近く、中枢に位置しているのですね。黒い太線は「トルコ人の壁」とあります。ユダヤ人が離散し、イスラム勢力がエルサレムを支配した時代の壁?なのかぁ。
「紀元前1000年から前586年のエルサレム第一神殿」と書かれたボード。遺構は何もありませんが、確かに周辺の位置関係を考えると、ここが神殿付近だったことは確かのようです。
以上のものがある全体図です。写真で見ると大きさがわかりにくいのですが、非常に大規模な発掘現場です。奥に階段があるので、なんとなくの大きさがわかりますでしょうか?
奥の柱の表示は「ストリートレベル」つまり、市街地の地面の位置、ということですね。現在の地面の位置がかなり高くなっていることがわかります。
上の「ストリートレベル」の表示です
上に出したのと同じ地図です。凡例を見ると、赤い実践が第一神殿の城壁、赤い点線は第一神殿と思われる位置だそうです。おお、だから嘆きの壁は西壁なんだ、と初めて理解したワタシです。(図を見ていて、神殿の城壁がターキッシュウォールが城壁だとすると東壁なのにな、と思っていたので)

「壁板 この壁は2600年以上前につくられました。これはヒゼキア王(Hezeliah: 紀元前8世紀ごろ)の時代のエルサレムの西側の丘の壁の一部です。 65mの長さをもつこの壁は7mの深さを掘削して彫られました。おそらくこの壁はイサヤが言っている壁です。「そしてヤハウェはアルサレムの家に番号を付け、壁を強化するために家を破壊した」(イザヤ20:10)。

えっと、イザヤってのは、旧約聖書に出てくる預言者の一人です。前8世紀、つまりバビロン捕囚前後の方だったと思います。
ティフェレット イスラエル通り・・・人名由来でしょうか?
こんな通りです。
ガラス容器の中に入っているのはユダヤ教の象徴ともいえる燭台、メノーラー(מְנֹרָה mənôrāh, menuroh, menorah)です。イスラエルの国章にもなっています
「イスラエルタワー
この壁の後ろの階段は、近代的な建物の地下室へとつながっています。 これについて。古代からの言い伝えが2つあります:ネブカドネザル(紀元前586年)による街の破壊の間に損傷した最初の神殿時代の塔の基礎。 とハスモン海(マカビ)時代の塔の残骸(紀元前2世紀)」
「西洋人」 西洋人のシナゴーグ(北アフリカの移民)は、1860年にTzuf Dvash-inとして知られるDavid ben-Shimonによって建てられました。この建物には、タルムードトーラと「トビーイェシバ」イェシバの2つのシナゴーグがありました。 1936年の暴動の間、律法の声はここで沈黙しました。1980年以来、シナゴーグとbeit midrash-Zuf Hashvash Yeshivaがありました。」・・すみません。よく訳せません・・・。

 

嘆きの壁 Western Wall (Wailing Wall). הכותל המערבי  حائط البراق‎
岩のドーム Dome of the Rock , قبة الصخرة‎ כיפת הסלע‎
では、ユダヤ教徒イスラムの聖地、嘆きの壁と、岩のドームに行きましょう。この場所をめぐり、2000年以上も様々な人々が争い、たくさんのたくさんの方がなくなってきました。今現在も決して安定な場所ではありませんが、自分たちのような外国人も近づくことができます。
何よりも”穢れ”を嫌うユダヤ教。水で清める場所もありました。
キッパー またはキッパ(כִּפָּה, kippa、kippah)と呼ばれるユダヤ人男性が頭にかぶる帽子のようなものです。ちょうど上の写真の男性がかぶっているものです。ユダヤ教徒でない観光客の男性用に貸し出しているボックスです。この中から勝手に取っていき、被った状態で壁に行き、使用後はまたここに戻します。
嘆きの壁のドアップ写真。せっかく行くのなら現地でないと撮れない写真を撮りたくて、こんなものを撮ってしまいました。でも「エルサレムの嘆きの壁」は見たことがあっても、「嘆きの壁の超ドアップ写真」って世の中にあまりない気がします。
こんな感じで、明らかに人の手が入った石です。表面は人が撫でて滑らかになっている気がします。
「下水道管
「これはハスモン時代に建てられた下水道の遺跡です。第二神殿を建てた時代は、エルサレムに水を届ける必要性が高まりました。この蛇行した水道橋の長さは21 km(13.5マイル)でした。それはベツレヘムの南にある「ソロモンの池」で始まり、彫刻が施されたトンネルを通り抜け、やがて神殿の丘までに達しました。水道橋は2000年の間、断続的に使用され続けました。この後ろにはオスマン帝国時代に下水道に挿入された陶器のパイプの遺跡もあります。」

 

駐車場 מגרש חניה .ساحة لانتظار السيارات
最後に、歴史にも宗教にも関係なく、旅行者が訪れるときの参考情報を少し。車で訪問した自分は、駐車場を見つけるのにとても苦労してしまいました。旧市街内に駐車場がないのは当然として、周辺にもあまり見かけないからです。
ただし、たくさん周辺を探すとこんなところも見つかります。
自分はぐるぐる回った結果、地方裁判所の駐車場に止めることにしました。理由は、この「駐車場マーク」があったからです。
いる愚痴はこんな感じです。
事務所がありました。おじさんは一人。とてもやる気がなさそうでした。
値段は25シュケル。相場がわかりませんが、やや高そうです。でも、ダマスカス門から歩いて10分以内で、確実に駐車できる場所はありがたかったです。
実は、イスラエルを離れる前夜、「やっぱりもう一度エルサレムを見に行きたい」と車を走らせました。テルアビブから1時間程度で行ける、と勝手に思っていましたが、大渋滞にハマってしまい予想以上に時間がかかってしまいました。よって一応エルサレム(新)市街にはたどり着きましたが・・・
「・・・この暗い中、、もう一度駐車場を探し、旧市街を大きなカメラをもってうろつくのか・・・」と考えたら、どう考えてもやめておいた方がいいと判断し、エルサレム新市街のきれいなイルミネーションだけ見て、エルアビブ近郊のホテルに向かいました・・・。

 

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