アル・ズバラ考古学遺跡 Al Zubarah Archaeological Site موقع الزبارة الأثري القطري |
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ちなみに(砂漠地帯なので当たり前ですが)降水量がとても少ないので、いつもこんな良い天気のようです。この遺跡の写真を画像検索すると、見事なまでに同じような写真ばかり出てきます。
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四角い塔の横には出窓みたいなのがあるのがわかりますか?これは熱湯や熱した油を上からかけて敵を撃退するためのしくみ、マチコレーション
Machicolation といいます。中世の城でもよくあった施設で、日本語では・・えっと・・なんだろう?
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当たり前ですが、塔は装飾の設備ではなく、戦いの施設ですので、戦闘用の様々な機能がついています。塔に銃を出す穴、銃眼が多数あいているのがわかるでしょうか?
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観光客が写真を撮っていました。そう、実はここ、カタールで唯一の世界遺産なんです。
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・・・といっても別にカタールに貴重な遺跡がない、という訳ではなく、ユネスコの欧米偏重、および様々な政治的思惑などによって指定数が大きく異なってしまっている実態があるだけです(ここら辺の話はとても深いのでまたどこかでまとめますね)
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一個だけ大砲が置いてありました。もちろん往時からここにあるわけではなく、展示用のオブジェです。
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でも、大砲が一個あるだけで雰囲気は変わりますねぇ。
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ここがこの要塞の駐車場。小規模ですが十分です。ちなみに入場。駐車場料金含めて全て無料です。
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「この考古学遺跡はこの場所は、初期のイスラム時代から近世にかけて、地域の主要な沿岸集落を支えてきた都市貿易と真珠採取の伝統の場所として2013年6月22日、カンボジア、プノンペンで行われた第37回世界遺産委員会で、ユネスコの世界遺産リストに登録されました。」
そうそう、こうやって「太字」で書いてある内容は、現地に掲げてあった看板・説明版を自分がなんとなく訳したものです。外国語は苦手、歴史もよく知らない素人が雑に・テキトーに訳したものですので、かなり間違っていると思われます。しかも全文でなく一部分だけのものもあります。あくまでも雰囲気を感じる程度にとらえていただければ幸いです。
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Ruins of Al Aubara アル・ズバラ遺跡 |
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世界遺産に指定されている「アル・ズバラの遺跡」には2か所あり、上記のズブラー砦 قلعة الزبارة と、もう一つ 「遺跡本体」があります。そこは先ほどのズブラー砦から数キロ離れていて、車で5分走った所にあります。・・車ならすぐですが、歩くとそれなりに大変だと思います。道路上にはこんな看板があり入り口はすぐわかります。
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「開場時間 9:00-16:30
入場無料
指定された場所を通ってください」
わかりやすい内容が書かれています。入場無料とはなんと良心的でしょうか。
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「絶対に遺跡を破壊したり毀損しないでください。カタールの法律により罰せられます」
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その間、1km以上。やっぱり「これ、車じゃなかったらどうするんだろう?」と思うほどの何もない砂漠を進みます。
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砂の道を車で5分。ようやく看板が出てきました。車もここに停めるようです。
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駐車スペースらしい場所のとなりには屋根付きのベンチと解説版がありました。 パンフレットなどの情報が少ない遺跡ですので、この看板を丁寧に見ていきましょう。
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「ここでできること ルールを確認しましょう。情報パネルがサイトのさまざまな部分を案内します。ここでは貴重な古い塹壕の中に足を踏み入れ、遺跡の中を歩くことができることを意味します。
かつての素晴らしい町の、かつての通りに沿って、廃墟の建物の間を散歩できます。ここを歩きながら、周りにさまざまな建物を見つけることができるかどうかを確認してください。
【自然】
鳥、昆虫、トカゲ、野ウサギ、砂漠のキツネさえも、廃墟の中でここに彼らの家を作ります。目を離さず、探検しながらこれらの動物を見つけられるように耳をすませてください。途中の情報パネルや、アルズバラ要塞のビジターセンターで、さまざまな動物について詳しく知ることができます。
【壊れやすい資源】
私たちが話す言語から私たちが身に着ける方法まで、私たちの生活は、私たちの前に来て、伝統と遺産を通じて世代から世代へと受け継がれてきた人々の生活に支配されています。
あなたの祖父母が語った物語であれ、古代の遺跡からの壺であれ、私たちは皆過去から何かを学ぶことができます。しかし遺産は壊れやすく簡単に損傷を受けます。
【発掘】ここで発見されたものをアルズバラ遺跡で確認し、考古学者が過去をどのようにつなぎ合わせてきたかを学びましょう。 200年前に構成した家のさまざまな部屋を見て、人々が食べた食物から家の装飾方法まで、どれだけの人生が変化し、どれだけ変化がなかったかを見てみましょう。
アルズバラを歩くときは、遺跡を大切にし、損傷を与えないでください。」
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「サイトマップ
アル・ズハラの歴史は大変複雑なのですが、考古学者によって、次の2つの大きな出来事は確認されています。
ここの繁栄の最盛期(1760年から1811年)は数千人が住んでおり、町は海岸に沿って1.4 km以上も広がっていました。
市場は活気に満ち、裕福な商人からの投資も多く、アルズバラは文化と学問の中心になりました。
しかし、その繁栄は長続きせず、1811年に町はほとんど廃墟となりました。ここの支配者はバーレーンに新しい基地を確保し、多くの人々が引っ越しをしていきました。そして町は何度も攻撃をされ、1811年に最終的には放棄されました。
1875年には廃墟の一部に小さな集落が設立されましたが、ここはそれ以上発展することはなく、1878年には再度放棄されました。」
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「この遺跡の形成的な役割 1700年代には、アル・ズバラのような町がアラビア湾の海岸沿いに現れました。真珠養殖と国際貿易のおかげで成長し、豊かになったこれらの町は、この地域の新しい時代を築き上げたていきました。
非常に急速に変化する世界で、アルズバラは忘れられがちな生活様式を今に伝えています。低い中庭の家や、石造りのモスクから長い防御壁まで、この町は、かつてこの地域で見られた一般的な生活様式のあらゆる様子を網羅しています。
これらの遺跡は、独立した小さな都市国家が、強大な国々の手の届かないところで、独立を守りながら繁栄し、今日私たちが知っている湾岸諸国への道を開いた、地域の歩みの確かな証拠を今に伝えています。今日の、ここへの訪問はほんの始まりにすぎません。 Al Zubarah Fortで詳細をご覧になり、作業の進展に合わせて再度お越しください。将来的には、町のより多くの部分が一般に公開され、新しい発掘や発見にアクセスできるようになります. 現代の文化に飲み込まれたクウェート、マナマ、アブサビなどの、かつての同時代の文化とは異なり、アルズバラはほとんどそのままで、砂漠の下に、町の全体が保存されています.
また、アルズバラ要塞の近くにある展示ホールを訪れるのを忘れないでください。ここでは、発見された物体のいくつかを見ることができ、町とその人々の物語について学ぶことができます。このプロジェクトは、カタール博物館が進めています。」
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全体図です。砦とこの遺跡の位置関係がわかるでしょうか?
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そして、この遺跡の部分です。湾の湾曲に沿って、半月のような形が都市遺跡です。その中で、右下の黄色い点が見学できる場所になっています。
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説明看板近くにあった管理事務所。開放時間だけお兄さんが常駐していました。
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アル・ズバラ Al Zubarah
أطلال الزبارةمحطة بترول الزبارة |
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「砂の下にあるもの(アルズバラ遺跡での発掘と研究)
2009年以降、砂漠の砂から宮殿、スーク(市場)、家屋、さまざまな工芸品が発見され、ここに住んでいた人々の生活、仕事、習慣に対する理解が深まりました。熟練した国際考古学者の熟練したチームは、サイトの抽出、測定、記録、写真の撮影を慎重に行っています。多くのスペシャリストフィールドで行われた発見と実験室で働くスペシャリストによって得られた情報を組み合わせることにより、町の過去と現代の湾の形成において果たした役割のイメージを作り出しています。
従来からあるイラストを描く方法から、最新の3Dレーザースキャンや物理探査まで、プロジェクトは可能な限り最高のサイトの記録方法で調査をしています。そしてそれらを一般公開するために、修復家の専門チームが、過酷な環境から壊れやすい遺跡を保護および保存する新しい方法を模索しています。」
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・・・とのことです。一見、ただの砂に見えてしまいますが、自分が想像している以上に丁寧に、確実に、最新機器を使って調査をしているのですね。
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何も知らなければただの砂浜、または砂漠の一部だと思ってしまいますが。
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「西を見る アルズバラ遺跡。アシュリッジ
【ラス半島】
埠頭ドック
1970年代につくられたこの近代的なコンクリート、石、鋼の波止場は海に崩落しており、訪問者にとって安全ではありません。
島と間違われることもあるこの小さな土地には、ルバイカのかつての真珠漁村(18〜19世紀)があります。近代的な集落もありますが、このエリアへのアクセスは禁止されています
【湾】
湾曲した湾は、岩棚が砂浜に続く場所です。ここから南の町の壁(左)までは、適切に保護された停泊地であり、漁船のための十分な隙間があります。岩だらけの棚がエリアを引っ込めて小さな砂の湾を形成し、Naから市の南壁(Yarra)まで走っています。どちらも静かで安全です。
発掘考古学者は、19世紀に真珠採掘者の家の遺跡を発見しました。その下には、18〜19世紀のスーク(市場)の遺跡があります。
19世紀町の内壁またはそれ以降の壁の輪郭は、地表で見つけるのは困難ですが、航空写真でははっきりしています。カタール美術館www.qm.org.qa」
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「砂漠周辺の野生生物 この周りには、石の砂漠がキラリと光る海に滑り込む湾岸の特徴であるサブカと呼ばれる塩味のある泥原があります。それは過酷な地域ですが、植物や動物と協力している地域もあり、その一部はかつて食べ物と見なされていました。静かに耳を傾けてください。潮の干潟に生息する貝を餌にする途中で、小さな水鳥の高音が鳴ります。霧の深い冬の朝、フラミンゴが泥を漕いで朝食を探している音で空気が満たされます。春の生活春には荒々しい植物が白と紫の咲き乱れ、岩の多い砂漠が東の剛毛に野生の草や繊細な野生の花で咲き乱れ、頭上の空は移動する鳥の雲で舞い、休息する場所を探します。この場所は、生態学的に保護されたエリアにあります。目と運が良ければ、フクロウ、ミサゴ、燃える太陽の邪魔にならないように、岩や植物の間に隠れている砂漠のネズミ、トカゲ、角のある毒蛇を見つけることができます。海に出たら、湾の暖かい塩水で泳ぐイルカ、ジュゴン、絶滅危惧種のタイマイを垣間見ることができます。2007年以降、アルレームユネスコ生物圏保護区の一部になっています。」
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「【海からの宝物】アルズバラ遺跡のパールダイバーズ 真珠の取引は、16世紀の開始以来、アル・ズバラの中心であり、現代の湾岸アイデンティティの不可欠な部分です。ここの場所は、湾岸地域でそのまま残った最後の最大のイスラム教の集落です。
絶品のアラビアの真珠は、その美しさのために珍重されました。 17世紀半ばから、湾は真珠の世界市場への主要な供給者として他の追随を許しませんでした。資源の枯渇と市場の崩壊は、20世紀の真珠の減少につながります。
真珠が軟体動物の殻にできることをご存知ですか?この場所はかつて真珠の一大産地でした。地域全体で、カタールの経済のバックボーンが形成され、何千人もの男性が毎年数か月間海に出かけています真珠層形成の季節は6月から10月まで続き、この地域の雇用と富の主要な源でした。何世紀もの間それはカタールの経済の中心を形成し、何千人もの男性が毎年数ヶ月間海に出かけました。
しかし1900年代初頭に日本の養殖真珠が導入され、そして1930年代に石油が発見されて以来、この地域の真珠産業はほとんど姿を消しました。」
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砂を見ると・・・貝殻がたくさんありますね。巻貝が中心ですが他のものも大量にあるようです。
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一見、単なる砂かと思いましたが、砂でない、貝やいろいろな海産物もこの場所を形作っているのだと思います。
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こんな形にブロック状になっている場所もありました。
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おそらく潮風で、表面の砂が固まったのだと思います。
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・・・「人工的なものはなにも残っていないんだな」と思っていたら、ありました!
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「この高級住宅は1980年代に部分的に発掘されました。他の大きな建物と同様に、キッチン、リビングルーム、床が石膏で塗り固められたハマム(バスルーム)のある中庭に分かれています。旧市街で裕福な人々が住んでいたと思われる地区が、このあたりのようです。広々とした中庭のある大きな家がたくさんあるからです。上にいく階段もあったようですが、今は存在していません。
この広々とした中庭の端にはかつて石と石膏の骨が立っていて、周りには大きな柱の列柱があったと考えられています。
壁は石膏で装飾されていたと考えられています。廊下や部屋などでその形跡が見つけられています。2010年の発掘調査で、町の中心部にある小さな家からも同様なものが発見されました。」
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「照明
最近の発掘で見つけられたことによると照明には写真のような石油ランプが使われたと考えられています。写真のものは、部屋の壁間で発見されたものです。
要塞化された街角部分
町には、建物の角に強化された建物があります。街の他の大きな建物、他の重要な建物にも同様に、四隅に高さ10mほどの要塞化された塔があったと考えられています。」
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なるほど。ここは上流階級の方の家のようですね。確かに壁の表面も石膏を丁寧に塗りこんで作られていることがわかります。隅の塔の痕跡はよくわかりません
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「【時間との戦い」 ここの遺跡の建物は1980年代に発掘され保存されました。当時の最高の技術を使用しているにもかかわらず、上昇する地下水、55°Cに達する夏の気温、そして壁を砂で洗う容赦のない風によって引き起こされた損傷を受けやすくなっています。遺跡を保護するためのコンクリートがさらに崩壊し、壊れやすい構造物に重量が加わりました。柔らかな天然石も風が吹いてくる方向に向けられました。【過去からの教訓】 こ考古学をより保護するために現代の技術が開発されました。
公共の展示のために建物を保存し、将来の世代のためにそれらを保存することは、現場での作業において最も重要で最も困難なことの1つです。熟練労働者による定期的なメンテナンスにより、ホットスポットの風化を防ぎ、壊れやすいものは慎重に埋めて、将来の世代に引き継いでいけるように保護します。」
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「【最後の種】なぜズバラはとても重要なのか。アルズバラがもっとも繁栄していた時、湾のいたるところに同様の貿易をおじなっている町がたくさんありました。しかし、現在、これらの町はすべて、現代の街並みに飲み込まれて消失しています。しかし、アル・ズバラはちがいます。放置され、砂漠の砂に埋もれたこの場所は、この激動の時代に町の都市構造を維持しています。まさに最後の種、といえるでしょう。長い防御壁と強い丸塔があるアルズバラには、この時代の町では珍しいレベルの都市計画と組織がありました。安全なエリアを形作るブロック、長い平行道路、路地裏、モスク、スーク(市場)、広場に集まった中庭の家などが今も確認できます。」
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これが塔のあとでしょうか?とても円形には見えないので別のものかもしれません。
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何もない(と感じてしまう)風景の中にある解説版は・・・
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「【アルズバラの生命線】カタールにおいて真水はいつも不足しています。半島全体に恒久的な川や湖はなく、地質学的にはアルズバラの井戸は塩水のみが出てくるものを意味しています。 最も近い淡水は、ムレアの熱い砂漠を東に2 km行ったところの井戸です。
【大きな開いた井戸】井戸は硬いダンマームの石灰岩を掘削し、地下水面と浅い淡水の帯にまで達しています。水は地下の貯水槽と大きな瓶に保管され、作物や動物からコーヒーの製造まで、すべてに使用されました。
【水瓶】生存に欠かせないこれらの井戸は非常に重要であり、Murairはそれらを保護するために建設されました。その後、町の住民と船への水の供給を保護するために、2つの集落の間に長い城壁が築かれました。 この「姉妹集落」の配置は、カタールの北西海岸沿いの町に共通する特徴です。」
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・・・解説には井戸とありましたが、それはどこ? という感じです。解説の「地質学的にここの井戸は海水しかでてこない」と言った意味を重く感じる風景です。
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解説版を読むと、ここに確かな街の営みを感じますが・・・
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風景を漫然と見るだけでは単なる砂漠の続き・・・としか感じないような光景が広がっています。
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【豊かで力強い】「アルズバラの富豪の家」この壮大な要塞建築は、100m x 110mの大きさで、1700年代後半の全盛期に建てられました。細かい漆喰の床と装飾された壁は、ここが大規模で裕福な家族の家であったことを示唆しています。
「誰がここに住んでいたと思いますか?」高くて丈夫に立っている四隅には丸い塔があり、長い壁を支えるのに役立ちました。町のスカイラインに特徴的な景観を作り出しました。9つの大きな中庭内部には、それぞれに部屋とサブの中庭があります。その多くは、幾何学模様、伝統的なモチーフ、ダウ船(ボート)の描写など、華やかな漆喰のデザインで装飾されています。1つのタワーの掘削により、強度を増すための内部の壁が明らかになり、大砲を設置するための補強をしていることもあることも明らかになりました。物置や食料品の保管庫、オーブン付きのキッチン、石膏で裏打ちされた洗面器付きのバスルームも、敷地内で発掘されています。」
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・・解説版を読み間違えたかと思うほど、説明とは全く関係のない風景。
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おお、ARのサイン。ここの遺跡はARのサイトも作ってあるらしく、専用アプリを入れてスマホをかざすと往時の光景が画面上で体験できる・・・らしいです。
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たしかに、ARでもないと何もない世界に見えますね。
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色が違っているのは、夕刻だから。実際の砂の色はほとんど同じです。
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・・え? 富豪の家・・・でしょうか?見る影もない砂の大地に小さな土塁がある感じです。
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ここを歩いて・・・という感じに通路に板がおいてありました。
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「【宮殿の発見】「エントランス」玄関のふもとにある棚は、大きくて頑丈な扉があったことをあらわしています。
「キッチン」
壁に、粘土で補強された深い調理穴があります。
「足跡」
約200年前にここを歩いた人々によって作られた足跡が今も残っています。」
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宮殿・・・とな?ここのエリアは今までにないほどの完璧な保存状態です。
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「【甘い報酬】「日付の重要性」 アルズバラの家には、マドバッサ(日付プレス)がなければ完成していません。彼らは宮殿、町の家、漁師の家、そしてスーク(市場)から多くのものが発見されました。何百年もの間、それらはカタール全体の砦、村、家の共通の特徴でした。 」
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・・・と、上の看板の訳で「日付プレス」と簡単に書いてしまいましたが、このマドバッサ madbassa (date press) というものがとても重要のようです。ネットで検索しても日本語で言及している論文は1つしかなく、英文で検索しても難解なものばかり・・・。
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それでもいろいろと(英語の)文献を探索していくと、中東近代史の論文が一つ書けてしまいそうな感じがしたので、それ以上の追及はあきらめてしまいました。おそらくナツメヤシの加工に関係のあるものでは?と勝手に考えていますが、よくわかりません。
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「南方面」・・・写真がぼけていてうまく読めません。
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うーーん、南には宗教的な施設もあったということですね。
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「壁を越えて
アル・ズバラの二等分遺跡」
これもぼけていて、良く読めません。遺跡を区別する位置を示しているようです。
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「【壁のほかに】「18世紀のカタールの家のさまざまな種類」
カタールの誰もが城壁を持つ宮殿に住んでいるわけではなく、あなたが見たような石造りの建物に住んでいるわけでもありません。
壁の外のベドウィンは広大な砂漠に住んでいました。彼らは家畜を飼い、季節に合わせて移動し、放牧しながら黒い羊毛のテントを持ち歩いていました。町の内部には、テントやバラスティと呼ばれる建物が密集しているエリアがあったことがわかります。これらのシンプルな小屋は、ヤシの葉の壁と屋根で作られています。この地方でよくみられるものでした。またそれらは、石造りの建物の建設期間や、海の近くに住む貧しい家族、漁師、パールダイバーによって使用された可能性もあります。石造りの家とは異なり、これらのテントやビーチの小屋は考古学者にわかるような証拠を残していませんが、多数のポストホール、ファイアーピット、石のラインが、それらがここにあったことを示しています。」
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・・なるほど。現在、遺跡として確認できる建造物はごく一部だけであり、当然ながらあった一般人の生活の痕跡もわずかながら見られる、ということですね。
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この壁の内と外にも、敵・見方だけでなく、様々なものが隔てられて存在していた、ということでしょう。
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現在にも通じる、貧富の差、職業の相違、部族の相違・・・。一見単なる砂漠に見えますが、この遺跡でさえもを丁寧に見ていけば、そういった現代に通じる様々なものが見えてくる・・・ってことですね。
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