イースター島歴史年表
ともするとこの島は、ユーモラスなモアイが点在する楽園のようなイメージがあるかも知れないが、いままで歩んできた道のりは苦難の連続だった。人口増加に伴う資源の枯渇、宗教の流入、そして欧米列強の思惑。陽気な南太平洋の孤島の歴史は表に出ない世界史の暗い側面を示唆している。
年 代 | 主な出来事 |
400頃 | 東ポリネシアからやってきた人々がラパヌイに定住を始める。5世紀後半にはアフ(祭壇)が作られ始めるが、小さな木像が建っているだけだった。徐々にモアイが作られ始めた。 |
700頃 | アフの上にもモアイが建てられるようになった。 |
1300頃 | 最初の王となったホツマツア王がやってくる。モアイ作りはますます盛んになった。 |
1600頃 | 頭の上にプカオを載せたモアイが作られ始める。部族間でモアイの大きさを競い、巨大なモアイが次々に作られ始めた。 |
1700頃 | このころから人口が大幅に増え、森林資源が枯渇し始めた。食糧難にもなり、モアイは全く作られなくなった。部族間で争いが起き始め、フリ・モアイ(モアイ倒し戦争)がはじまった。この戦いは19世紀まで続いた。 |
1722 | 4月5日(復活祭の日)、オランダ人ヤコブ・ロッゲフェ−ンがこの島を"発見"し、「イースター」という名前を付ける。島民およそ4000人と推定する。 |
1770 | スペインのドン・フェリペ・ゴンザレスが来航。島をスペイン領とする。島の酋長達は公文書にロンゴロンゴらしき文字を書く。 |
1774 | クツク来航。一部のモアイが倒されていることから、島内で争いが起こっていることを確認。 |
1776 | ラペルースが来航。やはり倒されたモアイを見て戦いがあることを知る。以後たくさんのヨーロッパの捕鯨船が来島する。 |
1804 | ロシアの捕鯨船「ネヴァ」来航。この時島には二十数体のモアイが立っていたと予想される。 |
1905 | アメリカのアザラシ狩猟船「ナンシー号」が来る。22人の島民を誘拐し溺死させてしまう。これ以降、島民の外来者への態度が硬化する。 |
1806 | ハワイの「カクノ・マヌ」号が来島するが入港を拒否される。 |
1811 | アメリカの捕鯨船「ピンドス号」が島の女性をさらい、性病などの伝染病と共に追い返す。病は島の社会生活を混乱させ、戦争を激化させた。 |
1816 | ロシアの軍艦「ルーリック」がやってくるが島民の敵意を感じすぐに出航。 |
1818 | チリがスペインから独立する。 |
1822 | ペルーがスペインから独立する。 |
1825 | イギリス軍艦「ブロッサム号」でフレデリック・ビーチーが来島するが激しい投石で接岸を断念。クック湾に4体のモアイが立っていることを認めるが、その他のモアイはかなり倒されていることを確認する。全島民を1500人と記録する。 |
1838 | デュペチ・ツアル来航。クック湾北岸の2つのアフにそれぞれ4体と5体の立っているモアイを記録する。立っているモアイの記録はこれが最後となる。 |
1862 | ペルーの艦隊が来島し、奴隷狩りをして1000人の島民を誘拐する。またこの年、最後のモアイが倒されたことが後年の記録から明らかになる。 |
1863 | 誘拐された島民が15人まで減って戻ってくる。しかも天然痘も一緒に持ってきたので、多くの島民が死亡。全人口僅か600人になる。 |
1864 | エジソン・エイロ神父来航。島のキリスト教化開始。同時に島の古来の神様やロンゴロンゴは異端視され始める。 |
1866 | デャトル・ボルニエ来航。イギリスの軍艦「トパーズ号」も来航。はじめて「アフの上のモアイは一つ残らず倒壊している」ことが確認される。 |
1870 | ボルニエが島の土地を買収し始め、同時に圧政を開始。チリ軍艦「オヒギンズ号」が来航し、ロンゴロンゴを大量に持ち帰る。 |
1871 | 300人の島民がボルニエの圧政からタチニの農園に逃れる。残った島民も、事故死したエイロ神父の後任ルーセル神父に連れられ、マンガレヴァ島に移った。 |
1872 | フランス軍艦「フロール号」で、後に紀行文「イースター島」を書く作家ピエール・ロティ来航。モアイを一体運び出す。 |
1877 | ボルニエ変死。このとき島の人口僅かに111人。ボルニエの遺産整理にアレキサンター・サーモンがやってくる。 |
1882 | イギリス軍艦「サッフォー号」、ドイツ「ハエナワ号」が来る。調査と共に遺物の破壊や持ち出しを行う。 |
1886 | アメリカ軍艦「トンプソン号」でウイリアム・トンプソンが来航。本格的な考古学的、民俗学的聞き取り調査を行う。同時にオロンゴの住居を破壊し、敷石とロンゴロンゴを持ち出す。 |
1888 | チリ政府が島を併合し名前を「パスクワ島」と定める。 |
1901 | 島はチリ海軍の統治下に。直接の統治はイギリス系でチリ在住のウイリアムソン・アンド・バルフォア会社に委ねられた。 |
1914 | イギリスの人類学者キャサリン・ルートレッジが老人などから聞き取り調査をする。しかしその資料は散逸してしまっている。 |
1934 | ベルギー船「メルカトール号」でラヴァシュリとメトローが来島し、口承の伝説を調査する。 |
1935 | 神父セヴァスチャン・ラングラート来島。学校やらい病患者の救済施設を作ったほか、独自に島を調査した。しかし遺跡に通し番号を直接書き込んでしまった。 |
1945 | ウイリアムソン・バルフォア社の利権が在チリのイギリス人チャールズ・デリの牧羊会社に移る。 |
1947 | ノルウェー人トール・ヘリエンダールがコンティキ号で、航海し東ポリネシア人南米渡来説を実証。 |
1952 | チリのナショナリズムの影響でデリの会社がチリ政府に接収される。 |
1954 | 島の3人の青年がボートと羅針盤でタヒチまでの4000kmの航海に成功 |
1955 | ヘイエルダール他、ノルウェーの考古学者と共に、アメリカのウイリアム・マロイ等が本格的な調査を行う。この時、ラノララクのモアイとアフが発掘され、アナケナのモアイ(ホツマツア王のモアイ)が発掘された。またヘリエルダールの著書「アク・アク」が世界中の関心を呼ぶ。 |
1960 | ウイリアム・マロイとゴンザレス・フィゲロア(チリの考古学者)によるアフ・アキヴィのモアイ7体が修復。そしてこの年、チリ沖地震が起こり、アフトンガリキの15体のモアイをアフごと破壊してしまう。 |
1963 | 考古学者フランシス・マジェール来島。 |
1964 | チリ海軍の統治に反対する政治運動がおこる。その結果文民行政官統治への切り替えと、自治選挙の実施が認められる。 |
1966 | 初の市長選挙が行われる。 |
1968 | フランスの雑誌社「パリ・マッチ」が取材と資金援助をして、アフタハイのモアイを復元する。 |
1978 | 後の島の知事にもなる考古学者セルジオ・ラブがアナケナのアフナウナウの復旧作業中、モアイの目を発見する。 |
1992 | 日本のクレーンメーカー「タダノ」がアフトンガリキの15体のモアイの復帰工事を開始。1995年に無事終了。 |
そして現在・・・・。 |
参考文献「イースター島」柳谷杞一郎 王様出版 等