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旅行記 「地平線の彼方へ」 Life has more imagination than We carry in our dreams.  

ロシア・中東・イベリア半島 ドタバタドライブ紀行

【第3章】 いざ出発 近くも遠い隣国へ

【1】成田にて

2019年の12月下旬。世の中が年末に向かって大忙しの中、成田空港に向かって車を走らせていた。年末年始の休みにはまだまだ間があり、会社も学校も正常運転している中、遊びに行く自分がとても申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、大好きな成田空港に向かっていた。一人なので鉄道で行くのが一番経済的だが、荷物などのことも考え、手軽な自家用車で行くことにし、ネットで一番安かった民営駐車場に予約を入れておいた。車が成田市に入ったとき、直接空港へ向かわず、市内へ向けて高速を降りた。家をかなり早く出たため時間があることに加え、できれば買い物をしたいと思い立ったからである。

成田は大好きな町である。それは自分にとって「外国への玄関口そのもの」だから。初めての海外もここから飛び立ち、それ以降何十回となくここから海外へ飛び立った。フライトによっては羽田や中部(セントレア)も利用するが、なんだかんだ言ってやはり成田が圧倒的に多く、それゆえ思い入れも深い場所である。特に家族が一緒の際は、子どもの体調なども考え前泊・後泊することも多く、気が付けば成田市内のホテルは10数件以上も利用した。よって主な施設やホテルの位置、抜け道なども含めて、地図なしで動ける町である。

「バックパックを買いたい・・・・・。とりあえず・・イオンモールかな」

買いたかったものは「バックパック」。荷物を全て収納する一番大切なものであるが、出発時になってバックの一部が破損していたことに気づいたためである。
とりあえずイオンモールへ向かう。かつて成田のイオンと言えばJR成田駅そばの小さな(現)イオンモール成田富里店のみだったが、2000年ごろに新イオンモールができた。JR成田線が大きくカーブし、京成成田空港線と交差する国道408号線沿いの農地あたりである。ここはその後のいわゆるインバウンド需要も取り込み、ドンキホーテやら家電店やらが次々に開店していった一大開発エリアとなった。
しかし、店舗内をくまなく探したがやはりバックはなかった。正確にはあるにはあるけど、どれも非常に小型で、自分の旅に耐えられるサイズではない。やはり専門店でないと置いてないらしい。
「・・仕方がない・・・・まぁ。なんとかこれでがんばるか・・・」
と、改めてバックをよく見ると、ベルトの部分やファスナーの部分などもかなり怪しい状態になっていたが、今からではどうすることもできない。僕は覚悟を決めて、だましだまし使っていくことにした。
 車を空港近くの「ABCパーキング」という民間駐車場で車を預けた。14日間で7250円。年末年始の繁忙期なのに一日500円程度と、価格競争が激しくなった成田の民間駐車場の中でもかなり安い店である。あまりに安くて心配になりネットをのぞくと口コミに「従業員さんの態度がちょっと心配・・・」などの負の話もあったが、行ってみるとシンプルで余計なことを言わない係員さんがテキパキと働いているだけで、何の問題もなかった。むしろ他の民間駐車場と違い、空港送迎用のバスが、路線バスの中古で、ゆったりとしていてとても快適だった。

【photo:ABCパーキングの送迎車は巨大な中古路線バス 】


【2】ロシアへのビザ

「ええと・・。 帰りはモスクワ市内に寄らないってことでいいですね?」

成田空港第1ターミナルEカウンター。アエロフロート・ロシア航空のチェックインカウンターの日本人のお姉さんはそう一言だけ言うと、パスポートに貼られたロシアビザを一瞥し、無表情なまま端末をカタカタと叩き、フライトの搭乗手続きを進めていった。


【 見ているだけで心躍る気分になる成田空港の出発案内板】

「それでは搭乗券はこちら。25番ゲートに12:30までにお集まりください。12:55にはドアが閉まりますのでお気を付けください。何かご質問は? では、お気をつけていってらっしゃい」。

 非常にビジネスライクで、少々冷たい印象の受付嬢だったが、不愉快な態度でではなかった。しかも、必要なことは要点的に全部伝えていたので、業務としては全く問題のない。このとき、自分はお姉さんの少々冷たい態度よりも、とにかく手元のロシアビザが有効であることに安堵していた。そうなのだ。ロシアはビザが必要な国なのである。
【photo:何度訪れても興奮してしまう 成田空港第1ターミナル 】

 ビザ(査証)について少し書こう。日本のパスポートが強すぎて、最近ではビザの意義すら不明な方も多いと聞くがパスポート(旅券)は単なる身分証明書。「私は日本人です」と証明する公文書である。
外国人が別の国に入国するためには、その国への許可がないと入国できないのが一般的である。その入国許可証がビザである。だから本来は、事前に渡航先に国に「入国したい」と申請をし、ビザを取得する必要があるのだ。しかし国家間の取り決めで「あなたの国民は信頼できますから事前申請しなくても入国を許可しますよ」というビザ免除の国もでてくる。今、日本はその「ビザ免除」をしてくれる国が191か国(2020年現在)でダントツの世界一位。つまり日本の国際信用は非常に高いので、多くの国でビザなし渡航ができるが、本来は必ずビザを取得する必要があるのである。そして、ロシアは日本人にさえもビザ取得を求める数少ない国の一つである。

あるサイトにはロシアビザについてこんな感じのことが書いてある。
「ロシアに入国する外国人は全員、ロシアのビザを取得しなければなりません。ロシアの入国ビザはロシア大使館・領事館で取得することができます。ロシアのビザを申請する場合、受け入れ側からの招待状が必ず必要になります。招待者はロシア居住権を有する個人やビジネスパートナー、学校法人、医療機関、ロシア外務省からの旅行業許可証を有する旅行社でなければなりません。」
つまり、自分のような個人旅行者が、「単に観光したいだけです」「行き先を特に決めず、気に入った街に泊まる、ぶらぶら歩きたいです」といっても、そんな無計画な旅にはビザの申請が許されない。1991年12月のソビエト崩壊以来、この厳格なビザ申請も少しずつ緩和され、極東ウラジオストックなどは、簡単な電子申請だけでビザが取れるようになったが、それでもビザ取得困難な国の筆頭レベルである。
それでも今はモスクワなどへの訪問も、まず自分でweb上の電子申請をし、ロシア大使館へパスポートと共に申請に行き、自ら受取に行けば高額な費用もかからずビザがとれるらしい、という話もきいた。過去に比べればかなり楽だが、簡単になったとはいえ、この方法では少なくとも2回、平日に港区のロシア大使館まで出向かなくてはならない。
もっと楽な方法はないか・・と、思案していると、パスポートと写真を送付し、料金だけ払えばビザを代行取得してくれる業者がいることが分かった。赤坂にある「ロシアビザセンター」という業者だが、お金さえ払えば全てやってくれるとのこと。フライトもホテルも全くとっていない状態でもOK、という申請方法に半信半疑ではあったが、依頼すると本当にあっさりとビザが取れてしまっていた。
お値段は\14,500。高いか安いかはその人の価値判断だが、かつて様々な書類を完備して申請しないと取れなかったロシアビザが、何の予約もなしで、お金だけで取得できる、ということだけでもありがたいと感じた。


【photo:今回取得したロシアのビザと入国書類 】

自分には、ロシアのビザに関わって苦い記憶がある。
旧ソビエト連邦に併合されていたバルト三国のラトビアの首都リガを旅していた時のことである。ふとロシア大使館を見かけ、だめもとでロシアビザの申請をお願いに行ったのだ。予備知識として、そんな飛び入りでロシアビザが取れないことは薄々知っていたが、旧ソビエト内であるラトビアのロシア大使館なら少しは対応が違うかも、と期待して在ラトビアロシア大使館の扉を叩いたのである。


【photo:ロシア大使館を追い出されたラトビアのリガの街並み 】

しかし・・・。「けんもほろろ」という言葉がまさにぴったりの門前払いをされてしまった。
「ロシア語も話せないアジア人が来るところではない!」

係員に そんな人種差別的な暴言も受けてしまい、大きなトラウマになっているロシアのビザが、今回はいとも簡単に取れてしまったことが驚きである。

「あんなに文句を言われて取れなかったのに・・
・・時の流れというやつかもしれない・・・」
ビザ(査証)とは、たかが一枚の紙きれではあるが、

国境を超える人間にとってあまりにも重いものである。杉原千畝がリトアニアでユダヤ人に発行したビザを持ち出すまでもなく、そんな紙切れに翻弄された数多くの人々のことが脳裏をよぎり、感慨というか、一種のやるせなさというか、とにかく複雑な感情とともに、手元のロシアビザを、じっと見つめてしまった・・・。


【3】いざロシアへ

アエロフロート機は、その機内に入ったときからロシアだった。
「Привет(プリビエット:こんにちは)」。CAさんの美しくも軽やかな挨拶だけでなく、機内のあちらこちらに見えるキリル文字がすでにロシアである。搭乗率は90%。年末年始の繁忙期、というところだろうか。僕の席は機体最後部付近の窓際。乗降には時間がかかるが、機内全体を見渡すことができるうえ、主翼の姿も、そして下界も良く見える位置なので、お気に入りの位置である。
隣の席は空席だった。
しかしすぐに
「エクスキューズミー」と、若い白人女性が座った。
「・・・そっか。今日は一人なんだ・・・・」

 当たり前だが、今回は一人である。
「家族連れでない、気楽な一人旅」
「妻や子どもの行動の安全を確認しなくてもいい楽な旅」

「自分の都合だけで全てを決められる気ままな旅」

【photo:アエロフロートSU261の機内 】
ついさっきまで、その状態を謳歌していたはずなのに、いつもは妻か子どもが隣にいるはずの位置に、他の人が座るという当たり前の現実に自分の心は動揺していた。

「・・・ちょっと寂しいかも?」
「・・・ちょっと、やめればよかったかな?」
なんて、全く思ってもいなかった感情が沸き上がってきた。
夢までに見たあこがれの外国旅行に行くというのに、自分にそんな否定的感情がでてきたことに、一番驚いていたのはやはり自分だった。

13時20分。定刻に動き出したアエロフロート・ロシア航空SU261便は、そんな自分の気持ちを断ち切るかのように一路、モスクワに向け加速を始めた・・・。

【4】アエロフロート・ロシア航空

モスクワ到着は、今日の17時35分。13時20分が出発なので、わずか4時間のフライト・・・。と言いたいところだが、ここに時差を6時間含むので、実質所要時間は10時間15分である。

それにしても、アメリカ製アエロフロート機に乗っている自分の姿がなんだか信じられなかった。かつて、アエロフロートと言えば恐ろしく、そしてボロボロの古い機体のイメージしかなかった。物心ついたときから東西冷戦の話は、なんとなくニュースの端々で聞いていて、とにかくソ連は謎深く、そして恐ろしい国、というイメージがずっと付きまとっていたからである。物事がわかってきた年になってからも、大韓航空機撃墜事件、日ソ不可侵条約を破っての北方領土侵攻、アフガニスタン侵攻など、情勢を多少理解したからこそ、情け容赦なく西側諸国を攻撃する恐ろしい国、という印象をもってしまっていた。実際問題として、冷戦時代、アエロフロートはソビエト連邦の重要な諜報機関として動いていたこともあったようである。西側諸国のあえて軍事的に重要なエリア上空を「民間機」と主張しながら飛び、軍事情報を収集していたという例もよくあった、と伝え聞いている。加えて、ソビエト連邦と言えば、西側諸国とは違った航空機を独自につくっており、その技術も侮れない、ということも恐怖を増す要因であった。飛行機製造会社としても、ツポレフTupolev、イリューシンIlyushin、アントノフAntonov、ヤコブレフYakovlev、スホーイSukhoiなど、様々なものがあり、なんとかYS-11という中型機を1機種作っただけの戦後日本とはポテンシャルが全然違うと思ったものである。

【photo:今回の搭乗機 Boeing777-3M0(ER) (VQ-BQD)】

そして気ままな海外旅に出かけるようになってからも「アエロフロート」は安く、ボロい機体のくせにロシアビザが取りにくく、自由度の利かない使えないエアライン、という印象しかなかった。
そんなアエロフロート・ロシア航空だが、日本とのかかわりは非常に古く1967年にはツポレフTu-114という4発プロペラ機で日本航空と共同運航を始めている。新潟-ハバロフスク線も1973年と冷戦の最中に開設している。成田に来る機体も、ソ連製のツポレフやイリューシンだったが、ソ連崩壊後はすぐに西側の機材を投入し、現在はほとんどがヨーロッパのエアバスか、アメリカのボーイング製になるなど少しずつ進化していた。アエロフロートは日本とヨーロッパを結ぶ重要な路線として確かな歴史を築いてきたエアラインであった。

【5】Boeing 777-3M0(ER)

今回の機体はボーイング777(トリプルセブン)型。より正確に言えば777の300型の航続距離延長ER型(Extension Range)。完全なる正式名称でいえば、Boeing 777-3M0(ER)である。
そうそう、言い忘れたが、自分はソコソコの飛行機オタクで、飛行機の話をすると話が止まらなくなってしまう。ただしそればかり書いていると間違いなく読者の方が飽きるので、要点的にしたいが、多少はお付き合い願いたい。

【photo:この記号が機体固有の登録番号 VPはロシアの国籍記号 】

このボーイング777-300ER型は、新しい日本政府の政府専用機に選定されたことでもわかるように、航続距離は長く、信頼性もあり、かつ容量も巨大でしかも経済的という優れた機体である。全長73.9m、全幅64.8m。エンジンは高信頼のGE90-115Bを搭載し、最大航続距離は14,594 kmという超巨大・超長距離機である。かつてのジャンボ機ボーイング747、またはエアバスの4発機A340に置き換わる機体として世界を席巻した大型機で、1000機以上が製造され、フラッグシップ機のひとつとして活躍している。強力なライバルとしてエアバスA350もデビューしたり、使用年数が進み、引退機も出てきたりしているが777の安定性は評価が高い。そうそう飛行機話ついでにもう一点。飛行機についてあるものを見れば、機体の詳細を全て調べることができることをご存じだろうか。それが登録番号(レジストレーション)。唯一無二の記号として個体ごとふられていて主に機体後部に記されている文字列である。今回の機体はVQ-BQDという番号がふられており、これは日本路線によく就航している機体であった。

さて、SU261便は厳冬のシベリア上空をガンガン進んでいく。
「10時間のフライト」と聞くと「長い」「飽きる」「やることない」という方がほとんどかと思うが、自分の場合は非常に忙しい時間である。空港から市内への行き方を調べたり、入国審査時の注意点を確認したり、ロシア通貨への両替の方法を確認したり、時差を修正したり、明日の行先を検討したり、そして何より簡単なロシア語を覚えたりと、忙しいことこの上ない。もちろん、この後のハードスケジュールを考えると少しでも睡眠をとっておいた方がいいが、2回の機内食などもあり、10時間のフライト時間はあっという間に過ぎていく・・・。

 
【photo:30000ftから見下ろす新潟上空。温暖前線が美しい 】
 「ポーン」
 気が付くと機内アナウンスが、モスクワへの着陸体制へ入ったことを告げていた。
窓外はすでに真っ暗。17時だというのに、この暗さは?と考えて、モスクワは日本より緯度が高いことを思い出した。東京が北緯35度とすると、モスクワは北緯55度。しかも今は冬。調べてみると、日の出は9時。日没は16時ごろらしい。そりゃ真っ暗なはずである。

【photo:機内のナビゲーション画面。北極を飛んでいく 】

 ふと眼下に光が見えてきた。そしてそれが大きくなり、都市の様相を形作ってきたところで、わが261便は、軽い衝撃ともに着陸をした。
静かな着陸である。

「そういえば、アエロフロートに乗ると、ガタガタ、ボロボロの機体でびっくりするよ。
でも、だから着陸するとみんなで無事を祝して拍手をするんだよね」

なんて誰かが言っていたことを思い出したが、別にそんなイベントは何もなかった。
乗客はさも当然のように静かに降機準備を始めただけである。

いずれにしてもあの、あこがれと、そして恐怖のシェレメチェボ空港に、あの神秘と、秘密のベールに包まれたロシア共和国に着いた事実に僕はかなり興奮していた。

ただし。世界地図でいえば、隣国の首都へ着いただけ。

そう、つい忘れかけているが、ロシアは日本の隣国。イデオロギーも文化も違うが、7500km離れ、10時間かかる隣国の首都に着いただけのことであった。

【photo:モスクワ・シェレメチェボ空港に到着! 午後5時半なのにすでに真夜中の雰囲気 】